軍隊と学校(3)―予備員教育と学校(3)

荒木肇さんの最新刊

日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想

「きわめて人間臭い、戦場の実相の一部が目の当たりに浮かぶような気がしました」(元自衛官)
「兵器装備というのは、予想戦場、兵士の知的水準、兵站補給、技術工業水準、その他もろもろの要素が絡み合って開発される・・・といった常識がとてもよく理解できました」(経済人)
日本の技術者はどんな兵器を開発し、兵士たちはどんな訓練を受け、戦ったのか?
先人への感謝と日本現代史に熱い思いを抱く、すべての人に捧げます。




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はじめに

 

 九州の大雨、たいへんな被害が生まれました。多くの方々が亡くなり、住む家も奪われた方々もおられます。心よりお見舞いを申し上げます。

 

 前回の都議会選挙についての愚感についてKM様からお教えをいただき感謝です。ご指摘の通り、都知事の周りに集まるスタッフの質が彼女の今後の政治力を決定します。余計なお世話かもしれませんが、都民の方々の選択が誤っていないことを祈ります。

 

 さて、ようやく「脚気と軍隊」が完成に近づいてまいりました。以前、このメルマガで連載した内容に大幅に加筆、改訂をし、写真図版を関係各位からのご協力で載せることができました。

 

 わたしたちは物語でしか歴史を理解できません。人は五線紙の中の音符のように、互いに関わり合い、動き、メロディーをつくっていきます。

 

 それによれば、森鴎外は脚気について誤った対応をしてしまい、おかげで多くの人々の生命が失われた。これに対して海軍軍医たちは誠実に対応した。学理はともかく、麦を食べさせるという対症療法で脚気を海軍からなくすことができた。

 

 森鴎外を中心にした陸軍軍医たちは、間違った認識で処置を誤り、しかもそれに対して反省がなかったという物語がつくられてきました。脚気の惨禍と森鴎外を結びつけるという調べがリフレインされ、その解釈が主流になっています。

 

 しかし、鴎外はいまの我々よりも持っていた情報が少なかったのです。当時の医学者たちは、人はでんぷん、タンパク、脂肪と塩類だけで生きることができると信じていたのです。微量栄養素のビタミンについては世界中のだれも知らなかったのです。統計学はまだまだ粗雑なものでした。平時の軍隊で麦を支給したら患者が減った、つまりそれは相関関係でしかなく、伝染病だとしたらたまたま発生周期の増減と一致したのかも知れないという考えも十分に成り立ったのでした。相関関係を因果関係にすり替えてよいか、それは科学的態度とは言えない。そうした論理を鴎外たちはもっていたと考えることもできます。

 

 わたしたちは毎日、少しでもよい判断をしたいと願っています。よい判断に基づいた決断をするためには多くの情報を必要とし、間違いのない正しい決心をするためには、人はすべての情報を手に入れなくてはなりません。けれども、すべての情報を手にした人には決断も決心も必要はありません。正しい唯一の解決策はすでに手にした情報の中で明らかになっていますから。

 

 現在から見て、「間違った認識」を持った人が「正しい認識」を持った人を攻撃したと批判するのはあまり意味があることではないとわたしは思っています。自然科学や医学の新しい発見はいつも間違いと犠牲者によって生まれてきました。あのとき、こうしていれば多くの人を救えたのにという論法で昔の人を非難するのは難しいと思っています。

 

「麦を食べさせれば」と簡単に言いますが、野戦軍100万人(日露戦争)に1日6合の米の中に4割の麦を混ぜる。それがどれだけのことを引き起こすか? その膨大な量の大麦はどうやって調達するか、誰が運ぶか、何で運ぶか、何に詰めるか? 集積して検査する、規格をそろえ、叺(かます)に詰める。その叺をどこから誰が調達するのか? その代金決済はどの方式で行なうのか? 当時の時代背景がもたらす多くの困難と実態がありました。

 

 ふんだんに使える蒸気があり、せいぜい千人単位の給食をまかなう軍艦のギャレー(烹炊所)の事情とは異なります。陸軍の炊飯は野外で、水集めや薪拾いから始まったのです。時代の制約の中で人が生きていたことを正しく認識すれば、森鴎外陸軍軍医や高木兼寛海軍軍医たちの物語が決して単調なメロディーの繰り返しではないことが分かります。

 

 先日のチャンネル桜への出演の反響、ありがとうございました。難しいことも言えず、ただ日ごろの思っていることを申し上げました。

 

 

学校での軍隊的訓練に冷淡だった陸軍

 

 陸軍はもともと学校での軍事教練や、それに類した兵式の体操などには関心を持っていなかった。まず、小学校に期待したのは知的な能力の育成や、生活習慣の確立などでしかない。中等学校以上の生徒や学生に対しては、兵卒になどする気はまったくなく、専門的学問を生かした貢献だけを期待していたのである。

 

 むしろ興味深いのは、当時の軍人以外の有識者や、海外から帰ってきた留学経験者などに学校での軍事教育を語る者が多かったという事実である。たとえば、海外のことを紹介する中島信行(1846〜1899年)のような人がいた。元土佐藩の郷士の出身、坂本龍馬の海援隊に属し、陸援隊に転籍して戊辰戦争に参加。政府の徴士となって、明治9(1876)年から元老院議官を務めた。

 

 元老院の記録によると、中島はスイスの防衛制度にふれていた。「スイスのように平時には一兵もないのに、戦時になれば20余万人ほどの兵力が出せる。このために小学校のうちから行なう体操も兵式で行なっている」と語ったという。

 

 また、明治12(1879)年には佐野常民(さの・つねたみ、1823〜1902年)が採用推進の意見書を出している。佐野は佐賀藩出身、農商務大臣などにもなる。日本赤十字社の初代社長にもなった。『公立学校で兵隊教練の課程を設けることについて』など、多くの議官が学校での軍事教練に意義があると主張していたことが注目される。

 

 もちろん反対意見、あるいは慎重論もあった。河野敏鎌(こうの・とがま、1844〜1895年)は旧土佐藩士。明治13年には文部卿になった。河野によれば、「(民生上や財政上の問題もあるが)こういう制度を設けると、学校同士が競争するようになる。子供たちを追いこんで教練に励ませ、(その結果)本来の学業を軽視するようになり、粗暴なふるまいをするようにもなることは鏡にかけて見るより明らかである」という。

 

 ただし、河野も必ず言うように、決して反対といったわけではなかった。時期尚早だと考えていたらしい。実際のところ、翌年(明治13年)に文部卿に就任すると、体操伝習所で歩兵操練を実施させた。また、しばしば推進論に対して「時期尚早」と答えている。要するに、就学忌避、徴兵忌避の風潮がまだまだ社会にはある、そこでは小学校での軍事教育はまだまだ先のことだと考えていたのである。

 

 陸軍はこうした文部行政側とは異なる論理があった。「軍隊ノ外兵器ヲ携フル者アルハ陸軍ノ権限ニ関係スル又浅尠ナラス」と「廃刀令」にも関係するという考えをもっていた。もともと、内乱鎮圧を主とする任務を持った陸軍にとっては、民間人が武装することには大きな不安を持っていたのである。

 

森有礼の軍事教育論

 

 変わった提案をした外国帰りもいた。それが初代文部大臣の森有礼(もり・ありのり)である。明治12(1879)年に東京学士会館で森は大きな提案を行なった。それは学校での軍事訓練を体育問題に限定した立場に立っていた。

 

「兵式を採用する主眼は、身体上の問題なので、決して軍務のためになるように設けるのではない」という。実は森は続けて真意があることを打ち明けた。

 

 

「(兵式によって培われる力は)身体の健康上よりきたるものではなく、敢為(あえて勇気をもって実行する)の勇気もまたこれに加えられなくては完全なものではない」というのが森の真意であった。

 

 これが明らかにされたのは、明治15(1882)年の『学政片言』である。森は若者に「気質体躯ヲ鍛錬スル」ことは急務だとし、「全国富強ヲ致スノ大基礎」であると語った。体躯の鍛錬をすれば、気質もまた鍛錬されるという森の持論は当時もなかなか斬新なものだった。これは明治16年の徴兵令改正には間に合わなかったが、提言としてはやはり重要なものではあった。

 

 森は兵役について、「全国の男子をすべて服役させる」とはいうものの、「知能に富み技芸に長じ及び学術を修め国務に必要なるの目的ありて兵役に服せしむべからざる者」も存在するという。だから、徴兵免除とする中等教育以上の修了者にも「尚武の気風を育て、国民たるの分を守らせる」ことが必要だと主張する。ここで、中等教育以上の学校にも「兵式ノ操練」の実施が必要である意味が見えてくる。

 

森の師範学校教育論

 

 そうしてみると、森の「兵式操練」も2系統になった。義務教育たる小学校はいずれ兵士になる子供をつくるところだった。その指導者である訓導(くんどう)たちは師範学校で、それにふさわしい教育を受けなければならない。もう1つの系統は中等学校以上での操練である。これは兵士になることを想定しない教育である。

 

 明治18(1885)年、森は『師範学校合併に関する示論』で次のように述べた。

 

「生徒の取締(生活指導のこと)は、何といっても寄宿舎に関係がある。教室外の教育というものである。この教育は、坐作(立居ふるまい)、進退(行動)、衣食、起臥、そのほかすべてのことに関わる。これらは最もよく規律を重視する。男女を問わない。そうして男子の方は『軍人流儀の訓練法』を用いることがよい。陸軍の訓練法をよく参照して実行することが最もよい」

 

 森は師範教育を単に学科の教授能力だけを養成するところとは考えていなかった。「善良ノ人物」をつくることを目的とする。では、その善良な教師像とは何か。

 

 森は3点を挙げた。「従順」「友情」「威儀」の3要素だという。兵式体操を師範生徒に行なうのは、その1つの方法にしか過ぎない。さらに森は「軍人訓戒」にも共通する思想を持っていた。「軍人訓戒」は明治11(1878)年に陸軍卿山縣有朋が下したものである。そこには『陸軍総体ノ武徳精神』と『忠実勇敢服従ノ三約束』、そして『将校ハ其ノ精神ノ舎ニシテ武徳ノ模範』であらねばならないという精神があった。

 

 このように国民教育の理念と師範教育を規定した森は、明治19年の師範学校令では、学校建設の目的を書いた第1条には次の文言を規定する。

 

「生徒を純良信愛威重の気質を備え、養うことに注目すべきである」

 

 こうして、師範学校生の寄宿舎生活は兵器を与えられ、厳重な管理生活になっていった。

 

 次回はさらに具体的な中身についてお知らせしよう。

 

 

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

 

 

(2017年(平成29年)7月26日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊『日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想』(並木書房)がある。


【防人の道NEXT】国民の理解が自衛隊を支える−荒木肇氏に聞く[桜H29/6/28]





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