鉄道と軍隊(30)─戦時下の鉄道(4)ぼろぼろになった鉄道

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本土空襲、そして艦砲射撃

 

 いわゆる本土空襲は1944(昭和19)年6月のB29による北九州地区爆撃に始まった。続いて11月からはサイパンなどのマリアナ基地群からの大規模な攻撃が続き、昭和20年の2月以降は爆撃や焼夷弾攻撃により大都市は次々と壊滅的な打撃を受けた。6月になると中小地方都市にも攻撃がされ、交通機関や工場へのピンポイント攻撃が始まった。

 

 本土に近づいた空母群から発進した艦上機による爆弾投下や機銃掃射もされ、7月の月間空襲回数は120回にも及んだ。沿岸工業地帯は艦砲射撃まで受ける。静岡県浜松、岩手県釜石、茨城県日立、北海道室蘭などである。あげく、8月の広島、長崎への原子爆弾投下となった。

 

 国鉄の被害は、線路被害1600キロメートル、東京名古屋間400キロメートルの4倍にもなった。破壊された駅舎は198か所、機関車891輌、客車2228輌、電車は563輌という数字が残っている。国電の被害は特に大きく、全体の3割近くに及んだ。細かく見れば、蒸気機関車は爆撃によるものが182、銃撃が562、焼夷弾が95、艦砲射撃によるもの13の合計852輌が『日本国有鉄道百年史』に載る数字である。電気機関車は爆撃10、銃撃18、焼夷弾11の合計39輌であわせて891輛にのぼった。

 

 機関車は銃撃による被害がもっとも多かった。機銃による狙い撃ちである。機関手たち乗務員は停止させた機関車の下に潜り込んで弾丸を避けようとした。あるいはひたすら走って列車をトンネルに入れて守ろうとした。東海道の根府川白糸川鉄橋を越えたトンネルに飛び込もうとした列車があった。しかし、すでに先行する列車が入っていたために全部が入りきらず、飛び出た客車は穴だらけにされた。

 

 走行中の貨物列車も襲われた。銃撃による貨車の損傷は1043輛である。爆撃でも3600あまりが失われた。機関車も運転席だけでも装甲板を張ろうと突貫工事をしたが、いくらも完成しないうちに敗戦を迎えた。

 

 客車・電車でもっとも大きかったのは焼夷弾によるものだった。客車748、電車448輛の大被害である。主に夜間空襲で走行中より、停留しているところを焼かれた。鉄道職員は徹夜で防災に働き、関西では阪神三宮―元町、関東では京成日暮里―上野などの地下部分に電車を避難させた。貨車もまた全被害の半数以上に当たる4987輛が焼夷弾に焼かれた。

 

 空襲による人員被害は、職員死者1250人、負傷者3153人、旅客の死者717人、負傷者1777人にのぼり、これに広島・長崎の被害は含まれていない。

 

 艦砲射撃も恐ろしかった。大は40センチから小は駆逐艦の127ミリまでが撃ち込まれた。常磐線は5か所、室蘭本線4か所、東海道本線2か所、山田線2か所、房総東線1か所、釜石東線1か所という具合である。

 

 大きな悲劇もあった。それは有楽町駅に爆弾が落ちたときのことだ。昭和20年1月27日、東京はB29による昼間空襲を受けた。午後3時40分頃であった。170名余りの客が一瞬に吹き飛んでしまった。死傷した人員数もいまだに正確につかめていない。爆弾が落ちた場所とは今は東京方面の階段がある中央出札口である。

 

 5分前には駅長がメガホンを片手に「命が惜しかったら退避してください」という声をかけて回った。それに応じたのはわずかに3人の女性だった。防空壕に入った彼女たちだけが生き残れた。他の人は、いつも無事だからとそのまま出札口で切符の販売を待っていた。1枚の切符を買うために、朝の4時から順番を待って立っていたのである。出札所自体も吹き飛んでしまい、証明書と割り当て切符を前にして業務に励んでいた主任以下10名も爆死した。「手や足や胴がちらばっていた。その着衣はあられのようにちぎれちぎれになり・・・風呂敷包みが散っているような死骸のかたまりを…」と目撃者は語っている。汽車の切符が人の生命を奪ったのだった。

 

 駅での被害をもう一つだけ紹介しよう。20年7月27日、鹿児島駅が12時45分頃空襲を受けた。B29の3梯団による市街地をねらった絨毯爆撃である。ホームには満員の列車4本が入っていた。そこに爆弾が降り注いだのだ。死者は400人、駅員の殉職者は12人。そのほとんどは20歳未満の若い職員だった。

 

 そして最後は8月5日の中央本線浅川(現在の高尾駅)と相模湖の間で空襲に遭った419列車である。客車に対して、しつような銃撃が繰り返され、死傷者は980人にものぼった。アメリカ軍によるこの時期の、わが非戦闘員に対する一方的な攻撃、殺戮行為の実態にはいまもあきれ、腹が立つ。これで誰も戦争犯罪人になっていないのだ。

 

朝鮮との連絡船・崑崙丸の撃沈

 

 下関と釜山を結ぶ関釜(かんぷ)連絡船、崑崙丸が沈没したのは昭和18(1943)年10月5日である。崑崙丸(こんろんまる)はその年4月12日に運航を開始した新鋭船だった。貨客船でありながら最高速力23.45ノット(約43キロ/時)を出した。4日の午後10時5分、その日の第5便として下関を発った。乗客は479人、乗員と合わせて655人が乗っていた。定員は2500人だったが、乗船予定だった軍用列車に遅れが出ていたためにそれを見捨てて出航。おかげで船は空いていた。

 

 厳重な灯火管制がしかれて灰緑色の迷彩塗色をした崑崙丸は、やや時化気味だった玄界灘を快調に進んだ。5日の午前2時15分、沖ノ島東北約10カイリの地点で魚雷が一本左舷後部に突き刺さった。待ち伏せをしていたアメリカ潜水艦の放ったものだった。電燈はたちまち消えて、左舷に傾き、船尾から棒立ちになるような姿で崑崙丸は沈んでいった。

 

 救助された数少ない生存者の手記によれば、「至急準備をして甲板に出て指示を待て」と当直が起こしに来た。救命具を着けてデッキに出るまで1分と30秒ほど、火薬のにおいが船いっぱいにぷんぷんしていたので、あ、魚雷にやられたと思ったという。

 

 低気圧の通過で北西の風10メートルから15メートル、波高1.5から2メートル。ほとんどが就寝中の非常事態で、着の身着のまま、暗闇の海中に放り出されてしまった。互いに声を出して集まり、大きな漂流物につかまり励まし合った。

 

 そのころにちょうど釜山港を出た同型船天山丸はすでに対馬沖で金剛丸とすれ違っていた。次に遭うべき崑崙丸が来ない。不安を感じつつ下関に入港し、午前10時30分に折り返して捜索に向かった。11時過ぎに対馬付近を航行中、上空に飛んできた海軍の哨戒機から崑崙丸の遭難・沈没の連絡を受けて現場に急行した。仲間の徳寿丸、昌慶丸、壱岐丸も次々と現場に到着、救助活動を始めた。しかし、海は荒れ、捜索・救助も難しく、乗員・船客ともに低い海水温、波浪に巻き込まれて体力を失い乗客は28人、乗員41人、警察官や警備隊員など3人、合計72人が救われただけだった。

 

 久保田登船長はブリッジにとどまり、部下や乗客の退避の指揮をとりつづけた。航海士が救命具を差し出し退船をうながすと、「本船と運命を共にする」と言い残し、殉職した。これが最初で最大の遭難事故となった。これ以後、10月8日からは関釜連絡船は、軍隊と公務者、緊急の用務者にだけにしか乗船が許されなくなった。

 

 慰霊碑は下関市の日和山公園に1960(昭和35)年になってようやく建てられた。

 

機雷封鎖

 

 天山丸と興安丸がともに下関港を出帆したのが昭和20年4月1日のことだった。強大なアメリカ軍が沖縄本島に上陸した日である。8時30分に港を出た2隻は、9時42分、蓋井島(ふたおいじま)北北東の約2カイリの地点で被害に遭った。興安丸の側面に大きな水柱があがった。正体は音響機雷だったという。船の出す航走音に反応して爆発する。さいわい、ぐらりと傾斜したくらいで防水の応急処置が成功し、16時7分には下関桟橋に帰り着いた。死傷者も出なかったが、関門海峡付近には多くの機雷が投下されていると判断し、旅客便はすべて博多港から発着するようになった。

 

 4日後の5日、今度は貨物船壱岐丸が触雷する。航行不能。5月にも金剛丸が座礁、潜水艦を警戒し、沿岸航路をとったためとされる。7月は天山丸、昌慶丸が空襲で撃沈された。8月には対馬丸が朝鮮の港清津で空襲被害、脱出不能と判断され自沈した。

 

 瀬戸内海も危なくなった。5月25日には新羅丸(青函航路への増援を務めていた)が尾道の日立造船所ドックで修理を終えて下関に向かった。そのとき、門司の部崎燈台の南東1800メートルの地点で機雷の爆発で沈んだ。同じコースを別の船が無事に通り過ぎてからのことだったので、回数記憶の水圧機雷だったと考えられた。このタイプの機雷は船が近くを通るたびに水圧の変化でノッチが入る。ある回数が経って、ノッチ目盛の限度がきたときに起爆するといったものである。

 

 関門海峡は封鎖された。夜間にB29が飛んできて、都市空襲の合間に海に機雷を落としていったのだ。連絡船は博多、小串、仙崎の各港に避難して、できる限りの輸送に励んだが、新羅丸の沈没の2日後には金剛丸が博多湾内で触雷した。前夜に釜山から乗客1192人を運んできた同船は午前5時20分、玄海燈台東北東約1500メートルの地点で機雷2個が爆発した。排水作業も不能と判断し、進んで浅瀬にゆき船体を擱座させた。救援船で救助したため、死者1人、負傷者4人を出しただけで終わった。ところが、これを救助していた下関丸も6月12日には博多桟橋に航行中、触雷してしまった。

 

 7月に入ると、博多や小串、仙崎に分散した連絡船をねらった空襲が激しくなった。運輸通信省はもはや関釜連絡船の運航は無理と判断した。海軍の海運総監部と協議の上、全船を配置換えすることにした。壱岐丸、対馬丸は新潟港に回し、朝鮮羅津との航路を結び大陸からの食糧輸送に従事することになった。天山丸と興安丸は敦賀港に送り、朝鮮元山との間を走り、景福丸、徳寿丸、昌慶丸は敦賀―清津間に運航することにした。ここに大陸と本土の間を結ぶ大動脈はとうとう消えることになってしまった。

 

SS−268「ワーフ―」の喪失

 

 崑崙丸を撃沈したのはハワイを基地とする潜水艦「ワーフ―」だった。宗谷海峡から日本海に入り、対馬海峡を襲撃していた。モートン艦長はもともと対馬海峡を往来する大型の鉄道連絡船を狙い、出撃前にはかなり正確に連絡船の性能やルート、スケジュールにも精通していたらしい。あまり言われないことだが、内地にもスパイがかなり活動していたのだ。そのスパイの情報収集の能力の高さを示すのがこの事件だった。

 

 ワーフ―が崑崙丸を撃沈したのは偶然ではなかった。ただ、ワーフ−はその後、黄海付近で消息を絶ち、未帰還となった。おそらく日本海軍の対潜水艦艦艇の攻撃によるものだと推定されている。この喪失以来、アメリカ海軍は日本海での活動をあきらめ、代わりに機雷封鎖を戦術に採り入れたらしい。

 

 3月20日、マリアナから飛来したB29は1000個に及ぶ機雷を関門海峡に投下した。その第1号の犠牲が4月1日の興安丸である。機雷には、磁気、水圧、音響などの種類があり、掃海は不可能という状態になった。わが国近海に投下された機雷の数は約1万700個といわれる。うち半数近くの4696個が関門海峡周辺だったそうだ。

 

 次回は青函連絡船の壊滅について話そう。

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

(2017年(平成29年)5月17日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊』(並木書房)がある。


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