鉄道と軍隊(9)─狭軌か広軌かの争い─

荒木肇さんの最新刊

日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想

「きわめて人間臭い、戦場の実相の一部が目の当たりに浮かぶような気がしました」(元自衛官)
「兵器装備というのは、予想戦場、兵士の知的水準、兵站補給、技術工業水準、その他もろもろの要素が絡み合って開発される・・・といった常識がとてもよく理解できました」(経済人)
日本の技術者はどんな兵器を開発し、兵士たちはどんな訓練を受け、戦ったのか?
先人への感謝と日本現代史に熱い思いを抱く、すべての人に捧げます。




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狭軌採用は国土の狭さではなく、山が多く、資金がなかったこと

 

 いささか随想風な書き出しを許してもらいたい。

 

 幼い頃だったか、「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」というポスターを見た。自動車があふれ出し、交通事故が増えた。その原因はとりわけスピードの出しすぎといわれていた時代のことだったか。

 

 学校でも先生からしばしば言われたことが、「わが国は狭く、小さく、資源がない」ということだった。そうか、わが国は狭いし、小さいからなと妙に納得したが、中学生のころにおかしなことに気付いた。世界地図を見て列国と比べると、わが日本はそれほど狭く小さいわけではなかった。

 

 狭軌を採用し、それからも広軌(標準軌)になかなかできなかったのも狭い国土のせいだったという俗説がある。大隈重信などは晩年に、「小さな狭い国じゃから狭軌でよい」と言ってしまったなどと書いたものだからますますそれが定説になっている。

 

 確かに日本は狭い。アメリカやカナダ、ロシア、オーストラリアや中国、インドに比べれば確かに小さい。しかし、ヨーロッパ大陸という見方ではなく、各国の大きさを見ればいい。国ごとに見れば、わが国より広いのはフランス、スペインとスウェーデンだけだ。それでも標準軌の鉄道を敷き、国際列車を走らせている。英国も面積はわが国の3分の2もない。

 

 鉄道は兵器、軍需物資、兵員、機動力の元である馬や、車輛を大量に運ぶことができる。近代の戦争に鉄道は必須のものだった。わが国を悩ませたロシアの5フィート(1524ミリ)という広いゲージはアメリカ人技師の売り込みによるものらしい。それを皇帝ニコライ2世が受け入れた。おかげでヨーロッパの諸国とお互いに、そのままでは乗り入れができない。車輪のついた台車ごと交換するといった方法を採っている。

 

 ロシアは、19世紀末にはその広大な線路をシベリアに伸ばしてきた。20世紀の初めには鉄道がシベリアを横断し、軍港ウラジヲストックにまで線路は達した。シベリア鉄道本線はアムール河北岸を蛇行しながら進み、ハバロフスクにやってくる。さらに急角度で南下してウラジヲに着くが、新しい東清鉄道は700キロも行程を短くした。しかも本線はハバロフスクでアムール河を越さなければならない。そのため長い大鉄橋を必要とするが、東清鉄道はハルビンでアムールの支流松花江を越すだけでいい。鉄橋も短くてすむ。

 

 ハルビンが大きな都市になったのは東清鉄道建設のおかげだった。ハルビンからは南下して旅順や大連に通じる南満洲支線が建設された。5フィートの軌間がある地域はロシアの勢力が及ぶ。もしも、シベリア鉄道東朝鮮支線が造られ元山に通じ、西朝鮮支線が奉天から平壌に伸び、さらに漢城から釜山にまで到達したら朝鮮はロシアの植民地になっただろう。そうなればロシアは当然、幕末からの懸案だった対馬を租借したいと申し出た。対馬の次は長崎県の佐世保であり、関門海峡と津軽海峡も要求してきただろう。よくも先人たちは奮闘してくださった。日露戦争はまさにわが国の独立を守った民族戦争だった。

 

 わが国の鉄道が狭軌になった本当の理由は、山が多く、貧乏だったことが唯一最大の理由だった。軌間が小さいと設備も安い、そういった問題ではなかった。軌道敷やレールをお手軽な規格にしたかったからである。現在は1メートル当たり60キログラムという重いレールが使われている。当時はその半分、30キロぐらいの細い、軽いレールが使われていた。それは軽い機関車で小さな荷物を運べばいいと考えられていたからだ。

 

 国土が広く、長い割には日本には山や深い谷が多い。トンネルや鉄橋は金食い虫だった。だからなるべく線路は平らなところを選んでいった。低い山なら切通しをつくった。どうしても越えられない角度は、スイッチバックや碓氷峠に使われたアプト式を使った。スイッチバックとは進みながら登り、後退しながら登り、だんだんと高度を稼ぐ方法である。アプト式とは機関車の動輪にピニオン歯車を着け、線路の間にラックを敷いて、歯車同士を噛み合わせて粘着力の代わりにさせるシステムのことだ。

 

 実は世界最大長の狭軌鉄道を持つ国は南アフリカである。植民地帝国だった英国は、北アフリカから標準軌間の鉄道をアフリカの縦断路線として敷きたかった。ところが南アフリカの地形は海岸から台地がすぐ切り立っている。この高い、1000から1500メートルの台地に汽車が上がるには小さなカーブをたくさん造っていかねばならない。

 

 標準軌間が中速、もしくは高速(おおよそ時速60キロから80キロ)を出すにはカーブの最低半径を300メートルはとらねばならない。それが狭軌で40キロの最高速度なら半径が100メートルでもよかったのである。そのくせ、JRをはじめとして、欧州の鉄道と比べてさほど車輛が小さいわけではない。わたしは狭軌のくせに、標準軌の車輛とあまり変わらない規格になっている車輛を走らせるわが国の鉄道の健気さを思う。

 

「建主改従」か「改主改従」か?

 

 国有化以後の鉄道政策は、その時々の政治のありかたに振り回される面を多くもっていた。その大きな例は「建主改従」という建設を先にして、改良は後回しだという考え方をとる政策のありかただった。政治家の利害のために鉄道の建設が考えられるといういささか問題があることも起きてきた。地域の要望に応え、自分の利益のために鉄道を誘致する、駅を造らせるといったやりかたが目立ったのだ。

 

 しかし、同時に国全体の経済政策のために、鉄道の建設を考えるといった気分も育ってくる。鉄道政策は国家経営のために、経済政策を実現化するために考えるといった態度が見られてくるようになった。単に政治家の票集めのために鉄道誘致が使われるのではなく、国家全体のため、経済興隆のために鉄道政策を考えるといった気分が育ってきた。

 

 広軌(国際標準軌間1435ミリ)への改築要望はすでに日清戦争を見据えた軍部から始まった。1880年代からである。それがとにかく一貫輸送のために後回しにされた。次は鉄道当局の中で構想が建てられた。ところが日露戦争の準備のために予算がつかず、結局延期にされた。

 

 しかし、日露戦争の後には大陸との連絡輸送を考えるというところから、また日本国内での輸送力を高めるという要望から広軌にすべきという考え方が出てきた。実際、広軌と狭軌の鉄道の間には大きな輸送力の差があることはすぐに分かる。箱(車輛)の大きさが違うのだ。

 

 改軌計画の最初は20世紀の初めだった。1909(明治42)年に鉄道院総裁の後藤新平が立案した東京─下関間の改築計画である。後藤は1857(安政4)年生まれ、1929(昭和4)年まで生きた。岩手県水沢で伊達家の陪臣の子として成長した。後藤は前にも書いたが政界でも主流ではなく惑星的存在だったという。そのアイデアは自由で、大風呂敷とも悪口をいわれたが、壮大な計画を立てる
人物である。ところが財政ひっ迫を理由に、この標準軌への改築は西園寺内閣によって否決された。

 

 それでも1914(大正3)年に大隈重信が組閣すると、再び鉄道院総裁になった後藤は、またまた改築計画を立てる。この年に勃発した世界大戦のおかげである。貨物量が増えたのだ。戦争によってアジアに欧米の製品が運び込まれないようになったのである。おかげで日本はアジア全体の市場をほぼ独占するといった役割を担うようになる。しかもその当時には、わが国でも産業革命が起こり、重工業が発達し、国内の各種工業品の生産力は飛躍的に高まっていったのである。

 

 この計画は進み、実験線まで造られた。いまもJR東神奈川駅構内にはその資料が公開されているが、横浜線の原町田と橋本間に広軌の線路を敷いてさまざまな実験を行なったほどである。牽引力や輸送量の問題、または改軌にあたって、まず3本のレールを敷くか、それとも一気に4本にするかなど、各種の状況が比較された。しかし、この実験にはすでに満洲で改軌の先行経験があったために特に目新しい結果が出たことはなかっただろう。

 

 ただ、大正7・8年(1918・9)ころは、やはり緊縮財政のこともあり、政府や軍部は狭軌論だった。結局、狭軌論に統一され、全国的に鉄道を津々浦々まで敷く建設ブームの時代になる。

 

 政友会は広軌への改築を潰してしまったが、では一方で主張した複線化などの改良に金を使ったかというとそうではない。「建主改従政策」を推し進め膨大な建設予算を獲得して新線の建設に努めていった。毎年、8000万円もの予算がつぎ込まれ、鉄道の大拡張が行なわれた。この新線の建設は政党の党勢拡大に効果があった。政友会は大きくなり、地方の人々を喜ばせ、ますます党の力は伸びていった。

 

 これに対して憲政会は「改主建従」である。鉄道をむやみに造って、山間僻地にまで線路を伸ばしていくことは採算が取れない赤字線を生むだけだと主張した。自動車がやがて発達し、それは道路の改善を伴う。鉄道は交通機関として競争に負けるだろう。鉄道はいまある路線だけにして、複線化し、電化し、スピードを上げ、操車場や貨車を造り、貨物輸送を充実すればいい。むしろ自動車も経営し、国鉄自動車によって貨客を運ぶ方が国民にも有益だというのが反対派の意見だった。当時の世界大戦の経験からも、自動車の威力が大きな声で叫ばれていた
のである。

 

こぼれ話・弾丸列車計画

 

 鉄道の建設が得票に結びつく。鉄道誘致に反対だなどと言ったら、落選は間違いなしと言われていた。政友会も憲政会も、どちらも相当強引に鉄道当局に圧力をかけては新線を建設させた。

 

 広軌案が完全に息を止められたのは1919(大正8)年2月の原敬政友会内閣のときである。ところが1939(昭和14)年に再び広軌による「弾丸列車」を東京─下関に走らせようという計画が浮上した。計画委員会はこれの実現化に努力して、同区間を9時間で結ぶ新線建設を実行し始めた。全行程のおよそ3分の1を建設したところで、1942(昭和17)年におりからの戦時体制のなかで、やむなく中止することになった。しかし、この計画が1962(昭和37)年の東海道新幹線建設に結びついていく。

 

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

(2016年(平成28年)7月13日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊『日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想』(並木書房)がある。


【防人の道NEXT】国民の理解が自衛隊を支える−荒木肇氏に聞く[桜H29/6/28]





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