鉄道と軍隊(8)─国有化の問題

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鉄道国有化への動き

 

 国鉄がなくなってずいぶん年月が経った。1987(昭和62)年に、長い歴史をもつ日本国有鉄道はいわゆる分割・民営化によって6つのJR旅客鉄道と1つのJR貨物鉄道になった。1872(明治5)年に鉄道が初めて東京(新橋)と横浜(桜木町)の間を走ってから、国が建設し運営する官設鉄道と私設鉄道が並走する時代が1906(明治39)年まで続いた。

 

 国有鉄道という場合には、1906年の鉄道国有化法の公布と施行以後のことをいう。それまではあくまでも官設鉄道、官鉄と呼ぶのが正しい。これに対して私設鉄道は1883(明治16)年に日本鉄道会社が創立された。1889(明治22)年以後は各地に私鉄が敷かれ、営業キロ数では官鉄をいつも上回ってきた。そのうち主な会社17社が官有化された。これからを国鉄という。

 

 国有化の最大の理由は、まず営業制度、とくに運賃、経理などの統一が企画されたためだ。運賃が統一されれば全体としての利用者の負担は軽くなる。利用者も増えるだろう。次に一貫輸送体制が確立する。列車の直通運転、運転時間の短縮、整備や部品補充の効率化が図られる。とくに各地の産業が発達すれば、その運ぶ貨物の輸送経費の軽減や積み替える手間が減ることだろう。

 

 この時代には鉄道は大量輸送機関としての地位が確立されていた。江戸時代の、物は水の上、人は歩いて道路という原則がすっかり当てはまらなくなっていた。1905(明治38)年度には乗客数は1億1370万人を数え、貨物輸送量も2188万トンを示していた。新橋から下関、上野から青森といった長距離列車が走るようになった。

 

『坊ちゃん』、『三四郎』と汽車

 

 夏目漱石はずいぶん汽車が好きだったのではないか。その作品中には多く列車の旅が描かれる。たとえば名作『坊っちゃん』である。関川夏央氏の『汽車旅放浪記』は何度も読んだが、そこに「漱石と汽車」という章があった。それには精密な考証があり、それを借りて当時の汽車旅を再現してみたい。

 

 坊ちゃんは30円を懐に旅に出た。松山に着いたら、汽車と汽船の切符代と雑費を引いて、まだ14円あるという。物語は1905(明治38)年秋を時間的舞台としている。漱石の書いたものには戦争を大きく描いたものがないが、本来、このときは日露戦争の戦勝気分、その後の講和条約への不満が社会にあったころだ。

 

 坊ちゃんは下女の清に見送られて新橋駅から汽車に乗った。18時05分発の神戸行急行列車だった。17時間あまりかけて翌日の11時19分に神戸に着いた。私設鉄道の山陽鉄道がすでにあったから、広島の宇品へ向かい、船に乗り松山に行くコースもあった。しかし、松山からの帰京に使った道のりを考えてみたい。

 

 神戸までの2等乗車券が7円23銭、急行券は1円、通行税25銭となる。今のいくらにあたるかといえば、およそ1円が8000円くらいと考えるか。当時の長距離の旅は高価なものだったことがわかる。神戸からは大阪商船の宮崎行の船に乗ったのだろう。高松、多度津、今治と寄港しながらの旅である。松山の外港三津ヶ浜まで17時間40分、船賃は2円80銭、東京を出て3日目の午後1時40分に着いた。そこから7銭の軽便鉄道に乗った。

 

 これまでですべての運賃の合計は11円35銭。それに各地の人力車代や食事、あるいは船を待つ間の旅館の休息代などを考えると、漱石の書いた16円はほぼ正しいと関川氏はいう。

 

 漱石の作品には長い旅をする主人公が出てくる。1907(明治40)年の9月初めに上京する帝大文科大学生三四郎もそうである。熊本第五高等学校を7月に卒業して帝大に入学すべく彼は汽車に乗った。当時の旧制高校は7月に卒業、大学に入るのは9月だった。彼の故郷は福岡県京都郡である。

 

 国有化は1906(明治39)年から始まった。山陽鉄道は山陽線になり、九州鉄道も国鉄になった。私鉄17社を買収した結果、営業延長は2400キロから7000キロにまで伸びていた。小川三四郎の汽車旅はどうだったか。関川氏の考証に従うとする。

 

 1907(明治40)年、三四郎は行橋(大分県)駅から宇佐発門司行きの上り列車に乗った。午前9時57分である。小倉(北九州市)に11時06分に到着。門司には11時44分である。この門司駅は現在の門司港駅になる。連絡船で馬関海峡を渡る。関門トンネルの開通は1942(昭和17)年に下りが開通、2年後に上りが開通であるから仕方がない。下関で14時40分発の上り京都行き列車に乗る。広島着は21時23分、岡山着2時30分。神戸に着いたのは早朝の6時25分である。

 

 そのまま乗り続ければ京都には8時58分着になる。関川氏によれば、どうも三四郎は神戸で降りたらしい。神戸からは東京行きもあるが、三四郎は8時間も空けて14時30分発の名古屋行きに乗ったという。旅館で休息したり食事を摂ったりもしたのかもしれない。動きのとれない列車の旅では、途中で休みを入れるのが常識だったのか。

 

 京都には16時52分に着いた。草津18時07分着、彦根19時15分着、米原19時25分で7分停車、彦根で買った弁当をここで食べたらしい。『駅夫が屋根をどしどし踏んで、上から灯の点いた洋燈(ランプ)を挿し込んで行く』という描写の後に三四郎は弁当を食べる。車内は油の入ったランプが照らす。それでは夜間の車内はひどく薄暗かったことだろう。

 

 食べ終わった弁当のからを三四郎は窓から放り投げる。それが時代の常識だった。その折りの蓋が風にあおられて正面に座る女の顔にあたる。三四郎は謝り、口をきくことになり名古屋でいっしょに降りることとなった。22時39分、列車は名古屋に着いた。町はまだ宵の口のように賑やかだったというから、明治の昔から駅前は繁華だったのだ。

 

 女に頼まれ一緒の宿に泊まった三四郎は女の誘いに乗らなかった。翌朝、名古屋を午前8時発の列車に乗った。車内で三四郎は広田先生と出会う。列車はその日の夜、20時2分に東京に着いた。名古屋から12時間である。九州を出てから3日目の夜に東京に着いたことになる。

 

難航していた国有化

 

 1890年代の初めには国有化構想がすでにあった。ところがなかなか進展しなかった。その理由は財界の利害と大きくからんでいたからだ。景気がよくなると鉄道経営はひどく儲かった。逆に不景気になると財界は鉄道を手放したがった。景気の変動でいつも財界は主張を変えてきた。

 

 ところが一貫して国有化論を主張し続けたのは軍部だった。日清戦争を準備する中で、軍隊は全国の衛戍地から宇品港まで物資や兵員・馬匹を運ぶように計画した。青森から広島まで直通できる路線を期待したのである。その場合、輸送の企画から指示、運賃の計算、車両の運用まで、官・私鉄をまたがることの煩雑さは効率の低下を生んだ。軍事輸送を円滑に行なうためには国有化は必須であると考えてきたのだ。

 

 さらに日露戦後には、戦後経営を実現するためには国内の鉄道と朝鮮の鉄道、さらには南満洲鉄道の一貫輸送体制を整えることが急務とされた。そのためにも国内の鉄道だけでもまず国有化を進めようと考えた。当初は32の私鉄を買収しようとしたが、結局17社にとどめることになった。買収費は公債である。それでも全国の鉄道の80%は国鉄となった。

 

国有化がもたらしたもの

 

 鉄道国有法がすんなり議会を通ったかというと決してそうではなかった。衆議院では採決をめぐって、大乱闘まで起こった。野党議員が全員退場する中でようやっと法案が通過した。このようになったのは、三菱が国有化への反対の態度をとり始めたからだ。三菱は九州鉄道をほぼ支配し、株主配当は毎年1割を超えるというものだった。あらためて三菱は鉄道国有化に反対の意思を示し始めた。当時の外務大臣は加藤高明であり、三菱の女婿だった。そのため加藤は外相を辞任までした。

 

 さらに当時の西園寺内閣は倒そうとする野党ととことん戦い抜くという決意を固めていた。国有化を通さねば内閣が危ういという窮地にあったのだ。結局、国有化法は成立した。その法の中には「わが国の鉄道は国家が経営する」という原則が書かれていた。これは国鉄の分割・民営化(1987年)まで生き続けた。同時に、地方の小さな鉄道は私鉄に任せてもよいという例外規定も残された。1919(大正8)年の地方鉄道法は私鉄を「地方鉄道」という名称で認めるようになった。

 

 1910(明治43)年の統計では、全国鉄道の総延長の90%が国鉄となる。営業路線が50キロ以上の私鉄は、東武鉄道、成田鉄道、南海鉄道、中国鉄道といったほどでしかなかった。このように国鉄が全国を網羅すると、すべての駅の運賃表は全国版になり、駅の表示も職員の制服も、帽子の徽章も同じになった。「桐と動輪」の国鉄のマークの成立もこれからであり、車両の形式も統一されるようになり、全国どこに行っても私鉄らしい個性はなくなっていった。

 

全国的な流通網が生まれた

 

 江戸時代後半になると、とりわけ18世紀の後半から全国的な流通体制は整っていたといえる。上方からの下り酒は有名だし、北前船による日本海航路を使った肥料や、紅花などもすでに輸送体制が確立していた証明である。その商品の中味はといえば、米、酒、藍、干物、古着や織物といった衣食に関わるものが主流だった。必ずしも商品全般にいきわたることはなかったといえる。

 

 ところが産業革命が進み、大量生産による商品の全国市場ができ上がると、運ばれる荷物が変わってきた。農産物だけではなく工業製品、とりわけ衣料品、綿製の下着などが多くなってくる。工業原料や燃料、つまり鉱石や石炭などの輸送が大切になってきた。鉄道はこのような運ぶものの範囲が広がったこと、運ぶ距離が大きく増えたことに対応できる必要に応えるようになった。それが国有化運動でもあったのだ。

 

 国有化によって青函、宇高、関門といった鉄道の連絡航路も国鉄が運営するようになった。さらに下関と朝鮮の釜山を結ぶ関釜航路は国が経営することとなる。1910(明治43)年には朝鮮は併合され、統治のためにおかれた総督府が鉄道の建設・運営をするようになった。

 

 鉄道の役割は大きくなった。国民生活もその意識から変えていってしまう。その影響について次回は語ろうと思う。

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

(2016年(平成28年)6月29日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊』(並木書房)がある。


【防人の道NEXT】国民の理解が自衛隊を支える−荒木肇氏に聞く[桜H29/6/28]





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