鉄道と軍隊(1)

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鉄道事始め─狭軌のくびき

 

 メートル法でいえば1067ミリ、わが国の鉄道の標準軌間(ゲージ)である。世界の標準は1435ミリで、わが国では新幹線や一部の私鉄ではそれを採用している。1067ミリというと半端な数だが、英国風にいえば3フィート6インチで、12インチで1フィートだから3.5フィートときまりの良い数字になる。ちなみに国際標準の前述のゲージは4フィート8インチ半というヤード・ポンド法(英国式単位)でも半端な数である。これを切りのいい4フィートとか5フィートになぜしなかったかは謎だそうだ。

 

 鉄道建設が決まった時に外人お雇い技師が、「さて、ゲージはどうなさいますか」と政府高官に訊ねた。高官がそれは何かと説明を求めたというのだから、基礎・基本から学ぶしかなかったのだろう。ゲージとは鉄道の線路の幅のことである。現在は2本のレールの頭の車輪が当たる所の間隔で計るという。そのレールの間の幅によってカーブの半径も決まるし、鉄橋、トンネル、線路設備の各種の規格、駅や信号などの付属施設の規模なども変わってしまう。『金がない折から、少しでも長く線路を敷きたかったから狭い方にした』という当時の高官による、のちの時代の証言が残っている。それでは、当時の機関車、客車、貨物車などのハードの説明と、鉄路を支えるソフトについて調べてみよう。

 

 線路は路盤、道床、枕木、レールでできあがる。路盤はレールや枕木、道床の重さを支えるだけではない。それ自体がかなり堅固でなくては、線路そのものが不安定になる。道床は枕木とレールを上に載せるが列車が通るたびに枕木は沈む。それを受け止めてまた元の位置にレールを戻す。ふつうの道路と違うところは瞬間的に非常に重い物が通り過ぎるという点であり、そのために道路よりもはるかに堅固に造られる。枕木は犬釘でレールを止めるが、これも正確に同じレールの幅を維持する役目がある。この枕木はレールといっしょに列車の重量を支える。そこで一定の長さのレールの下に、何本枕木を入れるかということが鉄路の強固さに関係する。開業当時は栗の木を使ったという。英語名をスリーパーといった。

 

 諸説あるが、蒸気動力機関車の発明は1804年といっていい。これが実用化されたのは、ビートルズの歌にもある炭鉱の町マンチェスターと港町リヴァプールの間を1830年に結んだ鉄道の機関車である。それまではいつボイラーが爆発するかと恐れられていたこともあり、乗客が乗る客車は馬による牽引がなかなか廃(すた)れなかった。

 

 蒸気機関車は搭載した水をボイラーで過熱して蒸気にする。ただ、その蒸気圧力はいつも変化する。そこで蒸気機関車の運転は必要な圧力をいつも発揮できるように、なかなか複雑な手順が必要になる。まず、ボイラーの水を温める火室にくべる石炭の量、その石炭が生み出すカロリー、ボイラーの中の水の量、これらを考えながら圧力を加減していく。しかも石炭には産出地による質の差がある。生産地が違えば発生するカロリー量がまったく違うのが当たり前だった。

 

 昭和の初めの1930(昭和5)年の超特急「つばめ」の運転について分かりやすい話がある。東京−大阪間は当時、特別急行で12時間だった。それを9時間で走り切り2時間40分も短縮するとした。機関車は新しく造らずに1919(大正8)年に製造されたC51型機関車を使う。動輪の直径は1750ミリ、世界でも狭軌鉄道では最大のものだった。登り坂では機関車はつらい。これまでは低速で走っていたが、超特急ではかえって高速で走りぬける。たとえば国府津から山北への急勾配区間では時速30キロから最高で80キロにする。関ヶ原でもやはり70キロを出す。停車駅は横浜・名古屋・京都、上りは沼津で、下りは国府津・大垣で機関車を付けかえる。ついでにいえば、東京駅から横浜まで24分41秒で、現在の東海道線の28分を軽く超えている。

 

 この時は、区間によって使用する石炭の種類を指定していた。筑豊のどこの産出品、北海道夕張の石炭はどこで使うというように決めておき、事前にカロリー量を計算し、ボイラーで発生できる蒸気の量、シリンダーの中の圧力を完全に把握していたのだ。このカーブで、この勾配で使える蒸気はこれくらいで、決められた速度を維持するにはどこの石炭がどれほど必要かを機関手は知っていたのである。

 

 だから、開業当時の機関手は技師とも言うべき専門職だった。

 

 わが国の要路者は開港された横浜と東京を結ぶ鉄道をまず開こうとした。そのときに英国の技師、設備の一切を輸入することとする。

 

鉄道国産化への関心

 

 異文化としての鉄道への関心は高かった。1840年代にはすでに鉄道に関する正確な知識は手に入れていた。ヨーロッパで書かれた解説書を忠実に翻訳して、機関車のメカニズムについては十分に知っている人が多かった。ペリーが日本人を驚かそうと持ってきた機関車のミニチュアもそれほどの効果はなかった。その一方で、幕府や諸大名家では黒船に対抗できる蒸気船を自分で造ろうとする、あるいは大砲までも鋳造(ちゅうぞう)しようとする動きがあった。他のアジアの植民地になった国々とはそこが違ったのである。

 

 直に外国から製品を買い付ける方法をとったのが幕府だった。オランダから軍艦などを購入し海軍を創始しようとした。しかし、この方法は危険な面も持っている。いろいろな利権が絡み合い、植民地化の危険があった。事実、幕府はのちにフランスから資金の融通を受けて横須賀に軍港を整備しようとする。一歩、間違えば担保の土地や鉱山の採掘権などを奪われてしまう結果にもなったことだろう。

 

 自立の方向に進む勢力もあった。肥前佐賀の鍋島家は模型作りから入った。薩摩鹿児島では一気に実物を造る方向に向かった。佐賀では軍艦の模型も造ろうとする。基礎技術や原理の習得から始めようとするのは、まさに西欧式近代化への必須要件だったのだ。しかし、産業革命という大きな流れが進んでいなかった日本では、鉄道の必要性がそれほど強く認識されていなかったのも事実である。おかげで、将来にわたって大きな禍根を残す、鉄道ゲージの小ささが生まれてしまったともいえる。

 

 興味深いのは幕末にアメリカ公使館の1職員が横浜と江戸との間の鉄道敷設権を手に入れ、それが明治新政府を悩ませたことである。無思慮な幕府の閣僚が無造作に認可して調印してしまった。これを撤回させたのは英国政府の資金援助である。当時も新政府の中でも鉄道建設など無意味だとする意見が多かったなかで、大隈重信や伊藤博文などは鉄道推進派だったらしい。ただし、彼らもまた、東京と京都を鉄道で結べば中央集権化に有利であるというくらいの理由でしかなかった。それが大きく変わったのは、1868(明治元)年から翌年にかけての飢饉である。

 

 英国公使パークスは維新の豪傑たちに説いた。飢饉で苦しむ地域に、大量に短時間で食糧を運び込むには鉄道は有効であると。政府の基盤が弱く、飢饉への対応に苦しむ維新の志士たちはようやく、鉄道が輸送手段として効果が大きいことに気がついたらしい。非公式会議で鉄道の建設が決定すると、アメリカの影響力は後退し、英国が大きな発言権を持つようになった。こうして英国の資金と技術を基として東京−横浜、大坂−神戸の間の鉄道が建設される
ことになる。

 

 わが国が幸せだったことは建設の指導に雇った英国人技師長が誠実な人だったことだ。モレルは精魂を日本に注ぎ込んで妻と一緒に横浜で亡くなった。日本の伝統土木技術の優秀さを正しく評価し、工事を進めさせた。品川御殿山の切り取り、その土を使った品川・高輪の海岸埋め立て、横浜の高島台の切り崩しと鉄路の海中建設などである。鉄の枕木の輸入を止めさせて、国産木による調達に替えさせた。こうした誠実な態度はモレルだけではなく、多くの外国人技術者たちにも共通するものだった。彼らの友好的な指導、それに応えた先人たちによって、わが国の鉄道は他のアジアの植民地鉄道とは違った発展を遂げるようになった。

 

東海道か中山道か

 

 東京から群馬県の高崎へ、そこから碓氷峠を越えて軽井沢へ、諏訪から関ヶ原に向かい京都へつなごうという中山道ルートが企画された。海岸にそって線路を敷くと、敵の軍艦による艦砲射撃を恐れなくてはならない。だから、トンネルや橋梁が多くなり、カーブが多くなるような内陸に路線をつなぐべきだという考えが陸軍にあった。

 

 1887(明治20)年、清国との対決を準備する陸軍参謀本部は『鉄道論』という上奏文を出した。その要旨は2つになる。まず第1に、鉄道は戦時輸送を重視しルートを計画すべし。第2には単線の鉄道は軍事輸送には向かないという。単線では終末点で荷をおろした貨・客車が帰りの道のりで向かってくる列車とぶつかり、すれ違いのための無駄な待機時間が増えてしまうからだ。このことはのちの日露戦争で単線だったロシアのシベリア鉄道がずいぶんロシア軍に負担をかけた。さらにこの上奏文には補足事項が付いていた。輸送量を考えれば広軌で大馬力の大型機関車が必要であること、客車もまた装備を身に付けた兵士が多数乗るために頑丈な構造の客車が要ること、軍馬の輸送のために配慮された装備を付けた貨車が必須だとも付け加えている。

 

 すでに東海道線は海岸沿いに敷設が進み、この年には新橋−国府津(神奈川県小田原市)に路線は伸びていた。そして箱根を越えるのが難しいので、足柄山コース(すなわち現在の御殿場線)を取って山北(神奈川県山北町)経由の沼津(静岡県)までの工事が進んでいた。次の年には浜松(静岡県)から西もつながり、1889(明治22)年7月には新橋から神戸までの全線開通が実現した。

 

 少し時計の針を戻すと、今もそうだが海岸線を多く走る東海道線の開通を優先させる決定が出たのはようやく1886(明治19)年のことだった。それは主に陸軍が中山道コースを主張していたからだ。しかし、一刻も早く本州を縦貫する鉄道が欲しい。対清国戦のときは物資・馬匹・兵員の動員時の輸送と、清国軍が上陸してきた時には軍隊の移動が必要になるからである。ところが財政上の理由が大きく、ことはそう簡単には運ばなかった。トンネルや山中に橋を架けることはたいへんな費用がかかったからである。そのため、政府は鉄道建設公債までも発行していた。

 

 1883(明治16)年のことである。2000万円の中山道鉄道建設公債の発行が認められた。今ではおよそ4000億円あまりになるだろうか。その関連工事として日本海側の新潟県直江津(現高田市)から軽井沢まで(現在の信越線)の工事に着手してみると、山岳地帯の工事には途方もない金がかかることがわかった。中部の山岳地帯を抜けることになる中山道コースは山あり谷ありの連続で、とても公債額では足りないことが判明した。信越線は日本海側から東京への主要幹線とするので中止にはならなかった。ところが、難関がもう一つ待ち構えていた。アプト式で有名な碓氷峠である。この峠を走る線路は直線にすれば8.5キロ、そのうち曲線のトンネルが4キロ以上もあり、通過するのに75分もかかった。それでも高崎と東京の上野の間には日本鉄道という政府の試験援助を受けた民間会社が列車を走らせており、日清戦争にはかろうじて間に合っていた。

 

 さて、東海道線の話にもどろう。中山道ルートにこだわったのは陸軍である。そのボスは山縣有朋だった。この山縣に伊藤博文は説明した。参謀本部の不安は当然でもある。艦砲による攻撃だけではなく、ひそかに上陸した工作員によって鉄路が破壊されたり、運行が妨害されたりしたら、その警備用の兵力が必要になってしまう。海岸線の長いわが国には上陸するのにふさわしい地形が多かった。自在に行動する軍艦にとっては、どこでも戦場を選べるのである。守る側はどうしても後手に回ってしまわざるを得ない。だから、線路は少しでも海岸から遠いところにあることが望ましい、それが陸軍の主張だった。

 

 このころ、清国の軍艦4隻が長崎に来航し、上陸した水兵たちによって暴動が起こり、町が戦場のようになった経験も大きかった。山縣は幕末の下関での外国艦船砲撃で、反撃のために上陸してきた外国軍の怖さは身にしみていた。それであるのに、山縣は苦渋の決断をし、本州縦貫鉄道を造るために妥協をしたのである。こうして、中山道コースは後に回されることになり、現在の東海道線は1889(明治22)年7月に全通を迎えることになった。

 

山陽線の確保

 

 神戸までつながっても、その先が問題だった。山陽線が重要である。西に鉄道が伸びなければ経済活動にも不便であることは当然だった。また、東北から上野に向かう路線も重要である。北から東北、東海道、山陽道という路線がつながってこそ本当の本州縦貫鉄道になる。東海道は官設になったが東北線と山陽線は民間からの投資で建設が進められた。東北線は1881(明治14)年に設立された日本鉄道株式会社が持っていた高崎線からの分岐線として建設が始まった。これには第15国立銀行から政府資金が回った。これに対して山陽線は、純粋に財界人の資金によって設立された山陽鉄道によって敷設
された(明治21年)。

 

 山陽線は民間会社だったので路線も利益第一で海岸に沿って建設される。参謀本部は不満だったが、瀬戸内海の入り口には1887(明治20)年から要塞砲が据えられていた。山陽線は同91(明治24)年に神戸−尾道間が開通し、同94(明治27)年6月10日に広島まで伸びていった。その直後に日清戦争は始まり、からくも兵站・輸送の役に立つことができた。東北線もまた青森から上野まで同91(明治24)年には全線が開通していたので、青森の歩兵聯隊も広島まで列車を使うことができた。ただ、開戦時には広島駅から宇品港までの鉄道がなく、陸軍が急いで用地を買収し仮設線を造った。

 

 鉄道といっしょに伸びるのは電信である。この当時では長崎までの有線電信が開通していた。九州から対馬を経由して釜山へ、そこから京城までという朝鮮半島に伸びる海底電線もあったが、使用状況は不安定だった。上陸した有線電信は朝鮮半島の中での信頼性が低かったのである。そこで通信船が釜山港に待機したという状況だった。

 

 広島に天皇陛下をお迎えして大本営を建設したのも通信上の便利のためである。9月15日、半島に上陸して転戦中の第5師団司令部に天皇は入られた。この時の陛下の移動状況の記録が残っている。簡単に記してみよう。

 

 13日7時25分、新橋停車場をお召し列車は出発した。侍従長と大山陸軍大臣が御料車に同乗し、後方の供奉車には侍従や警衛の将校達が乗りこんだ。参謀総長以下の大本営メンバーはその後、3本の列車に乗って後を追った。陸海軍の佐官以上でも33名、これに尉官、下士官、馬丁や兵卒、馬なども移動するので列車3本が必要だった。最後の列車が出たのは午前10時5分である。最初の宿泊地名古屋に御料車が着いたのは夕方の午後6時40分だった。およそ11時間かかったわけだ。翌日は神戸に一泊、そして15日午後6時40分に広島到着だった。

 

 次回は普仏戦争で、フランスに対しプロシャ方式の鉄道利用の兵力集中、兵站輸送の優越を学んだ陸軍の鉄道利用と実際の状況を説明しよう。

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

(2016年(平成28年)4月27日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊』(並木書房)がある。


【防人の道NEXT】国民の理解が自衛隊を支える−荒木肇氏に聞く[桜H29/6/28]





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