日清・日露の戦争の脚気の惨害と兵站─脚気の惨害(3)

荒木肇さんの最新刊

日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想

「きわめて人間臭い、戦場の実相の一部が目の当たりに浮かぶような気がしました」(元自衛官)
「兵器装備というのは、予想戦場、兵士の知的水準、兵站補給、技術工業水準、その他もろもろの要素が絡み合って開発される・・・といった常識がとてもよく理解できました」(経済人)
日本の技術者はどんな兵器を開発し、兵士たちはどんな訓練を受け、戦ったのか?
先人への感謝と日本現代史に熱い思いを抱く、すべての人に捧げます。




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日清戦争の慌ただしい動員

 

 1894(明治27)年5月、朝鮮に農民による反乱(甲午農民戦争)が起きると、朝鮮政府は清国に救援を求めた。6月2日、わが国も条約に従い、また居留民保護の名目で出兵が裁可された。漢城(現ソウル)の公使館の警備には海軍陸戦隊があたっていた。大本営の設置もまた認められた。大本営の設置は「戦時大本営条例」で規定されていた。同時に参謀総長は5日に動員を発令した。『第5師団の一部を動員し別表戦闘序列の通り(第9)混成一旅団を編成し派遣相成りたし』という動員・派兵の允裁(いんさい)を経て発令されたものだ。

 

 第5師団(広島)への混成旅団充員召集は6月5日午後0時13分発とされている。続いて師団残部第1充員召集は12日午後5時45分発令とある。詳しい説明が残っている。混成旅団動員のときには、予備役歩兵科の下士兵卒及び輜重輸卒に限って、その到着日数が少ない者から召集し、他は現役兵で戦時編制要員を充足した。戦時編制になって最も定数が増えるのは歩兵聯隊である。また、輸卒の現役在営者はひどく少なく、多くは帰休兵として民間で暮らしていたので、ただちに多数の人員を必要としたからだ。

 

 当時の歩兵聯隊の平時人員は将校以下1600名であり、戦時旅団の歩兵2個聯隊(この時は歩兵第11聯隊と同21聯隊)の動員計画定員は5770名である。差し引き2600ほどの召集兵が必要だった。これに旅団に配属された騎兵第5大隊第1中隊(充員208名)、工兵第5大隊第1中隊(同292名)、輜重兵隊(同154名)、衛生隊(同244名)、野戦病院2個(同354名)が混成第9旅団の野戦部隊である。その合計人員は7957名だった。

 

 混成第9旅団は野戦部隊と兵站部はともに6月17日に「動員が結了」した。だが、「その部隊はいずれも臨時の編制で行李と輜重は駄馬ではなく、輸卒と人夫で代えられ兵站部要員の多くは陸軍省より配属した」と戦役統計には書かれている。実際の動員と派遣はあわただしいものがあったようだ。

 

 5日の充員召集発令時には第5師団長野津道貫中将は広島県知事に「歩兵科の帰休兵・予備役下士卒で5日間のうちに広島に来られない者、現役・予備役の輜重輸卒のうち7日以内に着隊できない者は召集しない」と通達している。完全な動員体制確立ではなく、応急派兵的な動員だったことが分かる。また、鉄道網が発達していないその頃、部隊に到着するには現在からは想像もできない多くの時間がかかった。令状も人の脚で運ばれ、赤紙を渡された者も山を越え、歩いてくることが普通だった。

 

 12日には臨時第9混成旅団(約8000名、うち戦闘員は同6300名)の先遣部隊が仁川に上陸する。これは6日に兵営を出発し、8日に宇品で乗船、9日に出航した部隊である。一戸兵衛(いちのへ・ひょうえ)歩兵少佐の指揮する歩兵第11聯隊第1大隊と工兵1個小隊(芹沢正勝工兵大尉)の人員1123名がその陣容だった。13日朝には仁川から漢城(ソウル)へ出発、その夕方には公使館に到着、護衛の任を海軍陸戦隊から引き継いだ。一戸少佐とは10年後の日露戦争において一戸堡塁で有名になった勇将である。以上、くどくど書いたのは、平時の軍隊が戦う軍隊に変わるための手続きをより理解してもらうためである。

 

 7月25日には、豊島沖で海軍が清国艦隊を攻撃、7月29日には陸軍は成歓と牙山の清国軍を撃破した。そして8月1日に宣戦布告がなされた。この海戦の中で東郷平八郎艦長が英国船籍のチャーター商船「高陞号」を撃沈した。国際法規に従った沈着な行動だったが、これを兵站・輸送・補給の面からみると、東郷艦長の功績もさらに輝くことが分かる。高陞号で移動中の清国兵1200、なかでも輸送中だった砲14門(12門との説もある)が成歓の戦闘に投入されていたらどうなったか。混成旅団はかなり苦戦を強いられたことだろう。混成旅団がもっていた山砲は8門しかなかった。高陞号撃沈の結果、14門の大砲は清国軍に使われず、もともとの8門と均衡することとなったからだ。

 

 このとき、陸軍は初めて戦時の軍の編成を行なった。師団などの戦略単位を統括する上級司令部である。第1軍は山縣有朋を司令官とし、臨時混成旅団、第5師団、第3師団をあわせ指揮して、8月までに仁川、釜山、元山から半島に上陸していた。9月15・16日には平穣の戦いで清国軍守備隊を敗走させ、10月下旬には鴨緑江を越えて南満洲に進撃した。

 

 この間、海軍は9月17日、『煙も見えず 雲もなく』で始まる「勇敢なる水兵」の軍歌で知られる「黄海の海戦」で清国北洋艦隊を撃破。黄海の制海権を手にした。これによって海上兵站線の安全は確保された。島国である日本、大陸で戦う陸軍の補給には膨大な軍需品を運ぶ海上の安全は必須なものである。

 

 第2軍の編成下令は10月2日、混成第12旅団、第1師団、第2師団が隷下におかれた。軍司令官は大山巌大将だった。この軍は遼東半島の占領を目的に、10月24日から南岸の花園口に上陸する。11月6日には金州城を落とし、翌日に大連湾を占領、22日には旅順を攻略した。1895(明治28)年2月2日には北洋艦隊の根拠地である山東半島の威海衛軍港も占領してしまう。

 

 アメリカの仲介によって下関(山口県)で日清講和条約が結ばれたのは4月17日のことだった。この条約の中では遼東半島の割譲が決まったが、ロシア・フランス・ドイツの口出しのために清国に返還するという決定があった。これを三国干渉といい、世論は大反発した。しかし、国民は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合言葉にしてさらに軍備の充実を決意することになった。当時の世界情勢では、力の無い者の主張は認められなかったからである。

 

 臥薪嘗胆はそのころ広く知られた中国春秋時代の故事から生まれた言葉である。越王勾践(こうせん)と呉王夫差(ふさ)の復讐劇だった。夫差は父の仇勾践を討とうと寝台に横にならず薪の上に寝た。こうして夫差は報復を遂げたが、勾践は敗北を味わった会稽(かいけい)の恥を雪(そそ)ごうとし、いつも苦い胆(きも)を嘗(な)めていたという話である。国民はこの両王の心意気を自分たちのものとした。領土の割譲は澎湖島(ほうことう)と台湾にしか過ぎなかったが、多くの償金を手に入れた。陸軍は師団その他を増設し、海軍も新鋭艦の購入・建造にいそしむことができた。

 

日清戦争の人的損害

 

「日清戦役統計」によると、軍人と軍属を合わせて外地服務者は約17万8000名、内地には6万9000名、合計24万7000名である。当時のわが国の総人口は約4100万人、うち男性が2100万人であり、兵役人口は423万人だった。男性のおよそ5人に1人、20歳から32歳までの人がそれにあたった。毎年の壮丁数はおよそ40〜43万人くらいである。ただそのうち現役兵として入営したのはおよそ12万人だった。

 

 1893(明治26)年末で、予備役兵卒は歩兵科6万人、騎兵科1300人、砲兵科6300人、工兵科2700人、輜重兵科1400人、その他1万8000人(雑卒など)の合計9万人。4年間の予備役を終えると後備役に編入された。この服役は5年間である。その数はおよそ10万4000人。これに予備役下士が各兵科・各部合わせて4100人、後備役同は6800人。この20万4900人の予・後備下士兵卒、それに予・後備役将校およそ1500人が動員規模の最大員数だった。

 

 現役軍人は将官とその相当官が63人、上長官(佐官と相当官)626人、士官(尉官と相当官)3870人、准士官49人、下士1万2987人、兵卒25万1847人、諸生徒2187人、合計27万1629人という勢力だった。これに加えて、軍属は奏任官が92人、判任官785人、生徒1人、傭人1427人の2305人。陸軍に勤務する者の合計27万3934人である。軍属は陸軍に勤務するが武官ではない。技術職や学校教官、事務官、雑役夫などをいった。奏任官は佐官・尉官と同等の官位をもち、判任官は属ともいわれ下士相当だった。

 

 当時の現役将校、とりわけ若手の上長官以下はみな高等教育機関出身である。准士官がわずか50人ほどしかいないことに不審をもつ方もいよう。それは当時、士官学校か国家資格をもたせる学校出身者でなければ将校、士官にはなれなかったからである。准士官になるのもごく一部の技術系下士の最終進級先であったことに他ならない。中等学校卒業以上でなくても士官になれるようになったのは、大正時代になって少尉候補者に選ばれて士官学校に学べるようになってからのことである。また日露戦中や戦後には特別進級で任官した下士・准士官もいたが、それはまだ10年も後のことになる。

 

 さて、日清戦争の人的損害である。死亡者数は2万159人だった。そのうち軍人・軍属の死亡者数は1万3488人である(67%)。さらに特徴的なのは、戦闘死者と戦傷が原因となって亡くなった人は1417人にすぎない。全死者の7%しか戦闘による死者がいないのである。ならば93%を占める死者はというとほとんどが病死者だったのだ。軍人・軍属以外の死亡者は多くが民間人の傭い人夫だった。

 

 この戦争では、兵站部でも野戦隊でも糧秣輸送の多くを人夫の背中に頼った。陸軍は師団編成をとったときに輜重兵を各師団に配分したが、この輜重兵大隊は主に歩兵聯隊と行動を共にする野戦輜重兵だった。輜重兵は師団輜重といわれたように、兵站輸送部隊によって運ばれた物資を集積所に受け取りに行き、師団内の各部隊に物資を配当するのが仕事である。後方からの補給を主任務とする軍兵站補給部隊の編成にまで、とても手が回らなかったのが実情だった。だから兵站補給部隊の大多数は内地で集めた人夫によって構成されていた。その数はすべてで15万2000人にも及んだ。たとえば第1師団では野戦隊に9500人、兵站部に4700人もの傭い人夫が従軍していたのである。この他、大本営、第1軍、第2軍に所管された者などがいた。

 

 病死者の病名は戦地入院患者が多い順に挙げてみよう。(  )内は死者数である。第1位は脚気3万126人(1860)、急性胃腸カタル1万1361人(1595)、赤痢1万1164人(1611)以下、マラリヤ、コレラ、腸チフス、肺炎の順になる。ただしコレラによる死者は入院患者8481人中の5211人と死亡率が圧倒的である。それにしても、脚気の死亡率は6%とはいえ、患者数の多さは最大、死者もコレラに次いでいる。軍人・軍属に限れば脚気にかかって1万7546人が入院し、うち死者は987人(致死率5.6%)で、人夫・職工の入院数1万2580人、うち死亡が873人(前同6.9%)という悲惨な状況にあった。

 

脚気をもたらした野戦給食

 

 大本営の幹部は参謀本部や陸軍省の平時職に就いていた者が多く充てられた。陸軍省医務局長は戦時職として野戦衛生長官になった。戦時中の長官は白米至上主義の石黒忠悳である。石黒の下には各軍の軍医部長、その下には師団軍医部長がいて衛生隊、隊属衛生部、野戦病院を統括した。もう一方には軍単位の兵站軍医部長がいて、司令部附衛生部、兵站病院、戦地定立病院(衛生予備員)、衛生予備廠、患者輸送部、鉄道輸送、水路輸送などを統括していた。この中の第二軍兵站軍医部長に森林太郎軍医監の名前が見える。

 

 森はエリートだった。ドイツ帰りの衛生学の新知識であり、洋食や麦食と比較して白米食の優秀さについてさまざまな実験を行ない、その結果を発表していた。石黒がたいへん頼りにしていた有能な後輩だったのだ。石黒は頑なに白米支給にこだわった。そして森も忠実な軍人として、この方針に従っていたことは疑えない。

 

 とりわけ脚気の惨害をこうむったのは台湾へ派遣された部隊だった。台湾の領収のために派遣されたのは第2軍の近衛師団の将兵である。講和条約の締結は4月17日、5月10日には樺山資紀海軍大将が台湾総督に任じられて、近衛師団と海軍の常備艦隊が総督の指揮下に入った。予想外だったのは現地の住民、豪族、清国軍隊が頑強な抵抗をしたことだ。当初、穏やかに民政を行なうこととした方針を変えて征討を行なうこととなった。

 

 7月下旬には混成第4旅団が編成されて、8月2日に大連から出航する。9月2日には遼東半島から第2師団の投入も決定、8日には先発部隊が台湾に向かった。16日に「南進軍」が編成され、2個師団、1個混成旅団という大兵力で10月下旬、ようやっと全土を平定できた。宣戦布告から威海衛の攻略までが6カ月、台湾平定は5カ月もかかった。

 

 そして脚気は、戦争全般を通して内地、野戦を通じて見られたが、とりわけこの台湾領収部隊で猛威をふるったのだ。その患者数は10カ月間(28年3月〜12月)で2万1087人、発生率107.7%、死亡率9.98%にものぼった。そして戦死は284人である。発生率が100%を超すのは、2回、3回と罹る者がいたからだろう。

 

 実際に現場では何を食べていたのだろうか。輸送は順調である。海路を安全に運ばれた白米はふんだんに提供された。内地米を十分に食べているという報告がある。では、副食はどうか。『前進部隊ハ勿論兵站地ニ駐屯スル部隊スラ』梅干、干魚、佃煮、氷豆腐(乾燥した高野豆腐のこと)、かんぴょう、かぼちゃ、芋、シイタケ、大根漬けなどであり、味噌汁もろくろく飲めなかったとある。白米をたらふく食べてビタミン不足の粗末な副食。いまの栄養学から見れば、まさに模範的な脚気食だったわけだ。

 

 そして、この時、森軍医監は台湾総督府陸軍部軍医部長の職に就いていたのだった。しかし、当時の森にとっても手を拱(こまね)いているしかなかったのだ。白米は素晴らしい食品であり、おかずが粗末だからだとは考えられなかったに違いない。せめて麦飯を支給する勇気さえあればと現在からは思えるが、それは自分の栄養学の敗北を認めるようなものだったのだろう。

 

海軍からの批判と石黒の反論

 

 ひるがえって海軍はどうだったか。『戦時糧食条例』に基づいて、白米を減らし、副食を2割増しにしたという。おかげで海軍の脚気発生は入院患者、わずかに34名だった。陸軍は3万人という数字に比べたら、誰もが首をひねったことだろう。やはり攻撃は海軍軍医が口火を切った。それに対して、東京大学出身者を中心にした陸軍高級軍医たちは「学理的」な反論を行なった。ビタミンが発見されない以前の世界では、とても解決できない問題でもある。

 

 海軍軍医界も執拗だった。麦食を戦時だからと止めたら、海軍でもとたんに脚気が再発生した。すぐに麦食に戻したら、すぐに脚気の患者はいなくなった。まず、食事の改善、しかも麦食を採用せよというのだ。これに対して石黒はどう答えたか。まず、兵隊を尊重し、学問を信じるからだという。味が悪く、消化もよくない麦を大切な兵隊に命令で食べさせるわけにはいかない。また、米食と脚気に関係があるとは帝国大学の医学者も明言してはいない。さらに栄養・保健学界の権威である人(森林太郎のこと)が学問的な研究で米食が麦食より優位であることを発表している。軍隊に給与する物を学理的な納得をなくして変えるわけにはいかないというのが石黒の反論『兵食談(明治29年4月に「時事新報」に掲載された)』だった。

 

 この反論ははなはだ意味がない。それどころか、米と麦の栄養学上の比較と対症療法としての麦食給与をわざと混同している。一部の陸軍軍医と海軍軍医のすべては、理由の解明はともかく、脚気を減らすには麦飯が有効だと主張しているのである。不思議なのは、1884(明治17)年の全国の部隊への雑穀混入を認めた自分の態度をどう説明するかである。そして、その結果、陸軍の脚気発生は下火になった。そのことを十分に承知していながら、石黒は戦時中に白米だけを給与した誤りを認めないのである。

 

 1897(明治30)年、石黒は休職の辞令を受け取った。停年のはるか前の52歳のことだった。軍医総監(中将相当)の停年は65歳である。病気療養のためと、後進に道を譲るためと自分から言いふらしたが、当時、真に受けた人はいなかったらしい。

 

 台湾の脚気も1896(明治29)年から3割の麦飯を給与するようになってから発生も終息するようになった。翌年には患者数は2700人に減少、続いて次の年には1700人に、1901(明治34)年には111人になり、その翌年には53人となっていった。

 

 こうであるのに、なぜ、また日露戦争では脚気の惨害が起きたのだろうか。

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

(2016年(平成28年)3月30日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊『日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想』(並木書房)がある。


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