陸海軍の対策─脚気の惨害(2)

荒木肇さんの最新刊

日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想

「きわめて人間臭い、戦場の実相の一部が目の当たりに浮かぶような気がしました」(元自衛官)
「兵器装備というのは、予想戦場、兵士の知的水準、兵站補給、技術工業水準、その他もろもろの要素が絡み合って開発される・・・といった常識がとてもよく理解できました」(経済人)
日本の技術者はどんな兵器を開発し、兵士たちはどんな訓練を受け、戦ったのか?
先人への感謝と日本現代史に熱い思いを抱く、すべての人に捧げます。




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海軍の食事改善の試み

 

 脚気の原因は「タンパク質」の摂取量が少ないからだと海軍軍医だった高木兼寛(たかぎ・かねひろ)は考えた。そこで1882(明治15)年に、戸塚文海医務局長名で川村純義海軍卿(内閣制度の前は海軍省長官は卿だった)に食事の改善について上申書を出した。その内容のおおよそは、
1)栄養の改良こそ第一に着手すべきことだが、経費の問題がある。
2)そこで2、3年間で3隻の軍艦の兵食を西洋食にする。
3)他の艦船は規程の食卓料で献立をつくる。
4)現金の払い戻しというシステムをなくす。
というものだった。

 

 金だけ渡して好きなものを勝手に食べさせる。そのことがタンパク質の不摂取につながり、食事のバランスを崩している。だから管理するのだという発想である。

 

 これに対する将官会議の審議結果は、高木の思惑通りにならなかった。将来、いつか現物給与にすることはほぼ決めてよかろう。しかし、具体的な事項を決める糧食条例は主船局(艦船運用を所掌する)で審理する。とりあえず医務局は、海軍病院の患者数名にかぎって西洋食献立を実験すべしということになってしまった。そのことによる経費の増大や、経理部門の主計局の抵抗などがあったからである。
 長年なじんだ食事の嗜好は容易に変えられるものではない。また、食費を還付する制度そのものを改編することも大変な事務量の増大を必要とする。主計官たちの反対も、海軍病院での実験結果を見ればもっともだった。西洋食は和食と比べ被験者たちの健康は増進されたが、問題は経費である。パン、ビスケット、肉類で構成された西洋食は港内日額33銭1厘、航海同は39銭1厘と、およそ3倍にもなっていた。そのため、反対勢力はますます勢いを増した。翌年の流行期である夏を前にしても、主船局での審理は一向に進まなかった。

 

高木軍医の上奏

 

 そこで高木はさらに強硬な手段をとった。当時の仁禮景範(にれ・かげのり)中艦隊司令官に直訴したのだ。東京と異なって地方都市ならば物価も安い。西洋食献立を艦隊の中で実施してほしいというのだ。もちろん、これは司令官に拒否された。経費の増大、食材の調達などの不便でとても実行できない。海軍卿のほうでよろしく検討されたいというのが返事だった。それでも高木はめげない。中央に働きかけ、ついに「脚気病調査特別委員(会)」を設置させる。さらには天皇にも兵食改善を直訴する。おそらく自身も脚気患者だった明治帝は高木の上奏をよく受け入れたのだろう。これが1883(明治16)年11月のことだった。

 

 このころ、学界では中毒説と伝染病説が主流であり、食事原因説はほとんど顧みられていなかった。旧い漢方医学の対症療法にしか過ぎないと考えられていたからだ。そこへ天皇に対しての直の奏問、しかも支持者もほとんどいない脚気の原因は食事だという断言。まさに高木の医師、医学者としての勇気は高く評価されねばならない。しかし、この時代に、この高木の独走は他部局の軍人からはどう受け止められたか。

 

 政府は西南戦争(1877年)の戦費調達に苦闘し、国内の混乱の後始末に困っていた。しかも、隣国朝鮮の政情は不安定だった。そこに清国海軍の増強という不安要因、その他の事情が山積し、海軍は主力艦船の整備すら思うようにできていなかったのである。そんな時期に、兵食の改善などという瑣末なことを上奏した。しかもそれを実行すれば経費は3倍にもなる。なんだ、軍医はそうした事情に無関心なのかという批判にさらされたのも無理はない。しかも、最前線の艦船部隊では、自分の食費を節約して払い戻された現金を家族に送るというのは「美談」と受け止められていたのである。

 

 陸海軍上層部はみな幕末維新の英雄豪傑ばかりだった。彼らは腹一杯に白米を詰め込み、粗末な副食で戦い抜き、革命戦を生き延びた人々である。武士(軍人)は食事のことなどをあれこれ言うものではないといった美意識もあったに違いない。それに加えて、日本海軍軍医界の指導者、英国人医師アンダーソンも伝染病説の支持者だった。『タンパク質を多く摂れば脚気がなくなる。そういうことはない』という今でも正しい意見が、同時期にお雇い外国人からも出されていたのである。

 

海軍では脚気が絶滅する

 

 ところが、高木はホームランを打った。1883(明治16)年11月24日、上奏の日より5日前のことになる。高木は遠洋航海に出る軍艦「筑波(つくば)」に対して、食費の全額消費を目指す指示を要請した。つまり、下士兵卒の節約、その結果の現金払い戻しを止めさせたのだ。同26日には「調査表」の作成を筑波主計長に依頼する。どんな材料をいくらで購入し、どのように調理し、支給したかの記録である。これからの流れは、まさに高木の計画通りになったといっていい。おそらく天皇直々の言葉のおかげだろう。

 

 翌年1月15日には、のちに「標準指定金給時代(明治17〜同22年まで)」といわれる施策のスタートになった。決まった金額で購入した現品を支給し、その食品の種類も軍医・主計の監督を受けるというものだった。タンパク質を増やし、炭水化物(つまり白米)を減らし、パン食をさせたわけである。

 

 筑波の実験は大成功となった。1884(明治17)年2月3日、品川沖を出航した筑波は、ニュージーランド、南米、ハワイを経て11月16日に帰ってきた。287日間の航海で乗員333名中、患者わずか16名(4.8%)を出しただけだった。国内でも患者は激減した。全体で700名あまりになった。これは例年の半分にしか過ぎなかった。

 

 これによって海軍は兵食改革の効果について誰もが認めるようになった。ところが、事態はこじれた。パン食を嫌った艦船乗員たちは海にパンを捨てたというのだ。また、西洋食など食べられるかと反発する下士・兵員が多く、現場からの医務局への怒りの声が伝わってきたのだ。では、と高木は次の対策を打った。米麦混食給与だった。パン食は廃止されたが、5割の挽き割り麦と5割の白米を給与することにした。この麦飯支給(実際の比率は麦4、白米6)は、またまた大ヒットだった。洋食支給では半減しただけの患者数が、麦食後はほぼ絶滅したのである。

 

当時の世間の評価

 

 高木の論をもう一度検討しておこう。彼は食事のタンパク質(窒素)と炭水化物(炭素)の量の比率がカギだと考えた。本来、窒素:炭素は1:15がふさわしいのに、脚気患者は1:28にもなる。だからタンパク質の摂取量を増やすのが脚気に対して有効だ。その証拠は患者が大発生した龍驤の食物の窒素・炭素の比率は1:28で、患者減少の筑波では1:17だったという事実がある。

 

 これを高木は1885(明治18)年に医学界に発表する。ただし、この論で納得したら、学問というものが分かっていない。学問はあくまでも学理が立たなくてはならないからだ。反論はのちに帝国大学医科大学教授になる衛生学者緒方正規(おがた・まさのり)から出された。緒方は「脚気菌」を発見したというのである(のちにこれは誤りと認められた)。

 

 つづいて東京大学生理学者も反論する。これは栄養学の観点からである。米の擁護論ともいえる。さらには、生理学教授が登場、病気には流行期とそうでない時がある。たった1年の結果ではどうか。また、麦飯は白米に比べて窒素が多いというが、不消化分もきわめて多い。5合(900グラム)の米から得るタンパク質は40.2グラムだが、同量の麦からは26.24グラムにしか過ぎない。これは机上の計算と実際を重視する消化吸収試験という学問的検証を比べた結果で、高木の論の不備を指摘している。

 

 さらに陸軍衛生行政官はどう反応しただろうか。軍医本部次長の石黒忠悳(いしぐろ・ただのり)は次の通り語っている。

 

「肉食も一般化してきて、牛の屠殺量も増えている。東京近辺では食肉の消費量も増え、全国的にも最高だが、むしろ東京でこそ脚気は多い。脚気は兵隊や書生に多く、粗食の貧窮者や魚、肉、鳥、滋養物を摂らない禅僧にはきわめて患者は稀である。脚気で急死するのは、みな多血強壮な体格雄偉な者であり、田舎にはまれで都会に多い。転地療養で軽快するのも理由が不明である。脚気が滋養不給からくるというなら、女性に脚気が少ないのはなぜか」

 

 高木の脚気の原因説と麦飯有効の理論は間違いだった。だが、副食が改良されれば脚気は減る。麦飯を食べれば同じ結果になるといった事実は確かだった。だから、高木の業績はビタミン発見以前の実績としては高く評価すべきものである。また、個人の信念を周囲の反対をものともせず、実行に移した行政手腕には学ぶべきものが多い。

 

陸軍の流行病説と対策

 

 当時の陸軍軍医本部次長石黒忠悳は福島県梁川(やながわ)に弘化2(1845)年に生まれた。父は幕府代官所の吏員である手代(てだい)だった。全国の幕府領を管理する代官は将軍直臣の旗本の優秀者が選ばれた。その現地採用者が庶民出身の手代である。御家人身分の者は手附(てつき)という。優秀な手代は代官の転勤や、新任者への引き継ぎとして継続採用される。石黒の父親は優秀な人だったのだろう。石黒の姓は父方の叔父の養子となってからである。

 

 1864(元治元)年、江戸で医学と洋学を学んだ。幕府江戸医学所に進み、1869(明治2)年には文部省に出仕、大学東校に奉職後、兵部省軍医寮に入り軍医の道を進む。同73(明治6)年には1等軍医正になる。同79(明治12)年には軍医本部次長になる。同80(明治23)年に軍医総監(少将相当官)に昇任、医務局長になった。1901(明治34)年に予備役編入、1941(昭和16)年に死去、96歳の大往生をとげた。毀誉褒貶、入り混じる人物である。

 

 さて、衛生兵站の大元締めである軍医の世界は発足当初から人手不足に悩んだ。まず、優秀な人材がやってこない。兵部省時代の軍医寮の頃からそうだった。若手で西洋医学を学んだ者は大学教員候補だったし、各府県立医学校の教員に配当するのが最優先だった。そこへもってきて軍医の社会的地位の低さである。江戸時代から彼らは儒学者と同じく「長袖者(ながそでもの)」とか「長袖者流(ちょうしゅうしゃりゅう)」と言われて一般の武家とは違う扱いだった。帯刀していながら僧侶のように剃髪し、官位も僧官と同じである。

 

 大学東校は旧幕府の医学所を明治政府が引き継いだものだ。湯島(文京区)にあった昌平坂学問所を大学校と改称した。ここでは国学を教えることとし、開成校(幕府蕃書調所)、医学校を統合することとした。それぞれを本部にあたる湯島からの位置で、開成校を南校、医学校を東校とした。

 

 東校はミュルレル、ホフマンというドイツ人医師を招き東京医学校ともいわれ、1877(明治10)年に南校と統合され東京大学となった(帝国大学となるのは明治19年)。したがって、ここの卒業生はほとんどがドイツ医学の信奉者となり、ドイツ人が言うように脚気は伝染病だと信じた。

 

 陸軍はこの東京大学出身者を軍医に採用した。東校時代からの勤務歴のある石黒も、この動きに大きな役割を果たした。そして、これ以後も陸軍軍医界は東大医学部、帝国大学医科大学に頼ることができ、陸軍軍医の主流は東京帝大医学部卒業者になっていった。これに対して、海軍は前にも書いたように英国人医師を招き、独自に軍医を養成した。高木のような優等者は英国に留学させた。おかげで海軍軍医は伝染病説にふれる機会もなかったのである。

 

 陸軍も全軍あげて伝染病対策にまい進した。室内外の完全清掃で細菌を減らす。夏にはできるかぎり脚絆(きゃはん)をとらせ脚を楽にする。床に胡坐(あぐら)をかかせる。夏の暑いときには演習を涼しい時間に行なう。部屋の換気を励行する。身体をよく動かすようにさせる。新陳代謝を増やすためだ。できるだけ滋養の多いものを摂らせる。ただし、粗食が脚気の原因だということには反対する。
 これらを推進したのは石黒とその東大卒のスタッフだった。当時としては先進的な対策をとっている。むしろ完璧といっていい施策といっていい。ところが、脚気は容赦なく兵卒を襲ったのだ。

 

戊辰戦争の規程が兵食の始まり

 

 白米1日6合支給の規程は戊辰戦争から始まった。1人1日白米6合、金1朱と通達された。1朱とは1両の16分の1、およそ現在の1万円と考えるとうなずける数字である。白米は炊いて食べ、宿泊料他副食もつけて1万円。このまま1872(明治5)年まで陸海軍ともに同じである。その6合の根拠となったのは、江戸時代に支給された一人扶持一日五合の慣行からだったといわれる。平時の5合は戦時には6合にすべきだろうと考えられたらしい。

 

 この2月に陸海軍は分離する。兵部省は海軍省と陸軍省になった。兵食を海軍は現金給与にした。陸軍は徴兵令の施行に合わせて、同6年1月から「食料の規程」を出した。これを考えたのは経理部の項でも説明した陸軍会計局長津田出(つだ・いずる)と言われる。それによると、1日の支給は白米6合、賄い料6銭6厘である。定量は牛肉24匁(90グラム)、これが2銭2厘、魚菜は1銭4厘、味噌、醤油、漬物、茶、薪、鰹節などを合わせて6銭5厘5毛から出された数字だという。海軍の1日10銭と比べると、ずいぶん貧しい食事と言えるだろう。これが西南戦争後のインフレのおかげでもっと購買力は落ちた。

 

 当時の兵卒給与は技術系の火工卒が日額9銭9厘、砲兵1等卒が日給6銭、1等馭者(砲兵の砲車馭卒・工兵の資材運搬車馭卒)が同8銭、騎兵1等卒・輜重兵同が同5銭5厘、歩兵1等卒が5銭である。新興国らしく、技術系の火工や運転手にあたる馭兵の優遇が目立っている。

 

 1880(明治13)年の牛肉の値段は中等肉で100グラム当たり3銭とあり、牛鍋屋では1人前15銭とある。酒は中等で1升8銭というところ(明治14年)。兵卒が外出して居酒屋で一杯やるには2日分の給料が必要だっただろう。それでも当時の陸軍の食事に不満の声は聞かれない。それはおそらく腹一杯の米の飯があったからだろう。肉や魚が食べられるのも、地方では特に喜ばれたに違いない。

 

 1882(明治15)年6月、石黒は上司を経由して大山陸軍卿に兵食改良の上申書を出した。インフレで物価が西南戦争後にそれ以前の5割増しになったからである。米の値段もあがった。明治10年の10キロ当たり51銭が同15年には81銭にもなり1.6倍にもなった。同じように味噌、醤油なども3割増し、魚菜、蔬菜も4割から5割増しになった。日額6銭6厘をそれに見合って増額しなくては買える食材の量が減るばかりだった。ところが、食費の増額は認められなかった。当時の兵員は6鎮台や各地の要塞などにおよそ4万人だった。数千人の海軍下士・兵卒とは比べ物にならない。緊縮財政の折から、白米を減らすことはできないが、副食代金の支出増など認められないというわけである。

 

 上申は認められなかったものの石黒は全国の軍医官に兵食改良への意見書の提出を求めた。なかでも出色とされたのが大阪陸軍病院治療科の小池正直の意見書だった。小池は前年に東京大学医学部を卒業し軍医になった8人のうちの1人である。のちに軍医総監になった俊秀で同時に任官した者の中には森林太郎もいた。小池の「改正意見草案」の要旨は次の通りである。

 

1)人は一日にタンパク質120グラムと無窒素物(炭水化物と脂肪)420グラムを摂らなければならない。
2)配合ではタンパク質と炭水化物の比例、あるいはタンパク質と炭水化物・脂肪(合わせて無窒素物)の比例を一定化することが大切である(窒素タンパク質と炭素の比例は、1:13ないし15、タンパク質と無窒素物は1:4ないし5が標準だという)。
3)英・仏・独・墺(オーストリア)・米の兵卒はタンパク質をほぼ120〜160グラムを毎日摂り、タンパク質と無窒素物の比例が1:5以上なので、わが国もこれに倣うべし。
4)精米6合は偏ったもので、澱粉が過剰、脂肪が不足、タンパク質が最も不足。これを米の増量で補うと1日1800グラム、1升2合となる。これではますます澱粉が過剰になる。副食代6銭でタンパク質67グラムの不足を補えるか。

 

 ここで小池は陸軍軍医らしく現場の状況を描いている。魚はタンパク質がたいへん多い。

 

 ところが、実際の大阪の第8歩兵聯隊では副食費は4銭あまりである。それで購入できる魚類は20〜23匁(75〜86グラム強)でしかなかった。したがって、何か肉に替えるものが必要であると語り、米の脂肪とタンパク質の不足は魚と植物で考えていこうという。牛肉は牧畜が盛んでないから都会や開港地でなくては手に入れにくい。そうなると注目すべきは値段も安い豆腐であると論を進める。その定量は精米900グラム(今まで通り)、魚類200グラム、豆腐500グラムである。こうすればタンパク質は合計で1グラム強、脂肪29グラム弱、炭水化物698グラム強となる。タンパク質と炭水化物の比例は1:5.27になり各国の兵食と変わらない。むしろ養分は多くなる。

 

 この明治15年8月に発表された小池の論は、高木の主張した窒素と炭素の比例論に先立つこと半年以上も前のものである。陸軍軍医本部は同年9月から10月にかけて東京市ヶ谷の陸軍士官学校生徒の食事の分析と欧州人の食事との比較をオランダ人お雇い教師ヨハン・フレデリク・エイクマンに依頼した。このエイクマンは東京大学化学製薬学薬剤学教官として勤務していた。後にジャワで脚気のほんとうの原因を発見するクリスチアン・エイクマンの実兄だった。

 

 その調査結果は、小池の指摘した通りになった。欧州人の食事と比べると、タンパク質が微量、脂肪も最少量、炭水化物の最多量というものだった。この調査は高木の行なった海軍兵食分析より早く行なわれたものだった。陸軍軍医本部はこの結果も含めて、兵食改善の意見と費用増額を陸軍中枢に提出したが、ついに認められることにはならなかった。理由は、緊縮財政・経費節約と何より食事への無関心だったのだ。

 

陸軍はなぜ白米にこだわったか

 

 結論からいえば、石黒忠悳や森林太郎(鴎外)が脚気の惨害をもたらした訳ではなかった。副食が貧しいからビタミンB1が欠乏して脚気になった。玄米や粗精米にはあったビタミンB1を含む胚芽が、精米される間に削ぎ取られてしまう。それにビタミンB1が少ない副食の組み合わせが発病の真因だった。たとえ白米を食べていても、豊かな副食があれば脚気にはかからなかった。いまの我々がほとんど脚気と縁が切れたのも、副食に多くのビタミンB1が含まれているからだ。

 

 麦飯が脚気治癒に効果がある。このことは田舎育ちの石黒はよく知っていたし、当時の脚気対策の名漢方医遠田澄庵とも『すこぶる懇意な友人である』と言い合う仲だった。官立の脚気病院(明治11〜15年)でも同僚だった関係もある。それなのに、なぜ麦飯を採用しなかったのか。そのことを頑迷であったとか、間違った学問を信じていたとかいう批判は簡単である。とりわけ、ビタミンが発見された以後に非難するのは簡単である。ましてや21世紀の現在からみれば、愚かな人間としか思えないという人もいるだろう。

 

 しかし、当時の石黒や他の高級軍医たちも苦慮していたのだ。副食費は上げられない、兵食を改良することもできない、麦飯を食わせてくれという現場の部隊からの突き上げもある。実は師団以下の軍隊指揮官の側からは、脚気予防のために麦飯を支給してくれという声もあがっていたのだ。協議の結果、麦飯は勝手に食べてよいとした。ただし、米は害があるから代わりに麦を食わせよという命令は出せない。麦は米より安いから余った金は副食費に回してもよいという通達を出すことにした。1886(明治17)年9月には『精米ニ雑穀混用ノ達』である。麦、小豆、その他の雑穀を自由に混ぜてよいという許可だった。

 

 次回は日清・日露の脚気の惨害について詳しく書こうと思う。

 

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

(2016年(平成28年)3月23日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊『日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想』(並木書房)がある。


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