日露戦争の将兵は何を食べていたか?−脚気の惨害(1)

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脚気と軍隊

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「酔っぱらう日本兵」という誤報

 

 旅順要塞を攻撃中の第3軍に従軍した英国人記者は驚いた。攻囲軍の兵卒が昼日中から千鳥足で歩いているのだ。よろめき、なかにはしゃがみ、腰を落として、がっくり首を落としてという様子で休む姿が目についた。膝に力が入っていない。まるで酔っ払いの行動そっくりだった。将校も下士も、それを見とがめないどころか、下士までもふらつく者がいる。「べトン(コンクリート)に血を投げつけるような激戦の恐怖を日本兵は酒で紛らわせているのだ」と考えて無理はない。彼ら西欧人にとって脚気(かっけ)はよほどの専門家を除いて聞いたことも、見たこともないアジアの米食地域だけの「風土病」だったからだ。

 

 脚気という病はすでに奈良時代から存在していた。もともとは紀元前3世紀、古代中国で米食の広がりと同時に発生していたと医学史の研究者はいう。わが国でも奈良時代には上流階級の中に患者がいたことが確認できる。白米を常食とし、仏教思想の影響で貧しい副食を摂るようになってからのことである。平安時代の文学書からも「キヤクキ」「アシノケのぼる」「カクビヤウいたはりて」などという記述があることが確認される。

 

 鎌倉時代、この病気は上層階級、天皇家の人々や公卿たちに罹患者が多かった。それが、室町期になると将軍家や上層の幕臣たちに広がっていった。江戸期になると、まず徳川幕府の上層部に病気は発生する。三代将軍家光の死因は、おそらく脚気による「衝心(急性心臓麻痺)」に違いないという研究もある。この後、徳川将軍家では13代家定、14代家茂も脚気衝心で亡くなっている。皇女和宮も夫と同じく、明治の初めに脚気で夫の後を追ったことはよく知られていることだ。

 

 一般の階層にも脚気は広がっていった。富裕な町人や都市に住む上級武士がまず患者になった。元禄時代(18世紀初頭)にはすでに流行し、幕末の文化・文政時代(19世紀初めころ)には地方都市でも広まっていた。しかし、爆発的なともいえる罹患者が増えたのは、皮肉なことに文明開化の明治からだった。

 

 脚気は神経障害(感覚が鈍くなる)や筋肉障害(力が入らない)から始まる。循環器障害(心臓の障害)、水腫(むくみ)、胃腸障害を併発しながら最後には心臓麻痺を起こして死亡する。初めは脚が重くなる。続いて動きが悪くなり、膝に力が入りにくくなる。浮腫(むくみ)が起こり、食欲がなくなる。心臓の動悸が高まり、動くと息切れがする。

 

 筆者が子供のころ、昭和30年代(1960年前後)にも内科医はゴム製の検査器具を使っていた。椅子に腰かけさせて、脚をぶらぶら脱力させ、膝の下を叩くのだ。反射でつま先がピンと上がれば脚気の疑いは晴れた。それがいつの間にか行なわれなくなり、脚気などという病気はすっかり忘れられてしまった。社会全体が豊かになり、食生活が向上し、多様な食物を誰もが口にするようになったからである。

 

 驚いたことに数年前の新聞記事に脚気の記事が載った。アルバイトに夢中になっていた大学生が病院を訪れた。症状は脚の感覚が鈍くなり、食欲が減退し、動悸がして、脚がむくむというものだった。医者たちは困惑した。そんな訴えは長い間、聞いたこともない。古い医学書を見ていた大学病院の医師は、「さては」と気がついたという。コンビニ弁当やカップ食品が中心の食生活にひたっていた若者の病名は『江戸わずらい』だったのだ。

 

 ビタミンという微量栄養素は20世紀になって発見された。『江戸わずらい』といわれた脚気はビタミンB1の欠乏が原因だった。健康だった地方の若者が江戸に出てくる。しばらくすると脚気になる。故郷に帰った者だけは健康を回復した。おそらく都会の生活環境が問題だと考えられた。目に見えないものは、人にとっては存在しない。栄養バランスという考え方もなく、白米を腹いっぱい食べることが贅沢だとされた時代は長く続いた。

 

 江戸時代になると、都会の食事では毎日が精白された白米が主流だった。江戸の町には搗米屋(つきごめや)という店があった。送られてきた玄米を、臼で精白する商売である。地方にいては食べられない白米を食べられる。それが江戸時代の、大坂や江戸ではふつうになっていった。

 

 おかずは白米を多く食べられる塩辛い漬物や、具のない味噌汁、せいぜい干物の魚、野菜の煮つけなどだった。こうした貧しい副食では、ビタミンが不足して脚気が起きても不思議ではなかった。現在のような時代でも、腹をふくらませればそれで足りるといった食事をしていれば、確実に脚気は忍び寄ってくる。

 

西南戦争で起きた脚気

 

 熊本城は反政府軍に包囲された。陸上自衛隊第8師団修親会が研究した『西南戦争史』によると、明治10(1877)年2月21日から4月14日までの戦闘で、籠城した軍人などは約4500名、そのうち2460名が戦闘死傷者となっている。半分以上が負傷し亡くなった。大変な激戦だったことが分かる。

 

 病死者も出た。コレラ21名、腸チフス13名、脚気7名、赤痢・痘瘡いずれも5名、各種発熱による者も5名、胃カタル4名、腸カタル3名、自殺は3名である。その他も合わせて75名だった。脚気の死亡率は、もともとたいへん低い。およそ1〜2%だから、脚気の死者が7名ということは、罹患者は100倍もいたのだろう。700人から1400人が患者なら、籠城軍全体のざっと16%から32%の人間が脚気症状を訴えていたわけだ。

 

 この時の鎮台会計部の記録を見ると、籠城戦最末期を除いて毎日1人あたり6合(900グラム)ないし7合(1050グラム)の白米を支給している。おかずは塩、味噌、たまに干魚という。これではビタミン不足の脚気が出ても少しもおかしくない。では城外の野戦軍はどうかというと、大繃帯所といわれる野戦病院に収容された患者の第1位はやはり脚気。後方の軍団病院でも脚気患者が最も多かった。

 

 脚気の死者は正確な統計が残っている明治末期から調べると、全国では毎年1万から3万人にのぼっているという(乳幼児脚気を推定で含む)。腸チフス、赤痢という当時の致死性が高い伝染病の死者がそれぞれ6000〜7000人だから、脚気は十分に死病といえたのだ。そして、死亡率が1%から2%だから、実際の患者数はたいへんな数にのぼっていたわけだ。しかも、脚気は不思議と青壮年の男性に多く発生した。このことは労働力を奪い、家庭の働き手を失わせ、国民生活に大きな影を落としていた。

 

目に見えない大敵

 

 1882(明治15)年7月、朝鮮の壬午(じんご)軍乱で仁川湾(済物浦・さいもっぽ)に進出した軍艦金剛、日進、比叡、清輝は清国軍艦と睨み合っていた。40日余りの緊迫した事態が続いたが、金剛、比叡の両艦では、その間、乗組兵員の3分の1以上が脚気に倒れた。他の2艦も大差ない状態だった。戦闘力を喪失していたといっていい状況だったのである。品川沖で応援のため待機していた軍艦扶桑(ふそう)でも兵員309名のうち、180名が脚気症状を訴えていた。戦闘どころか航海もできるような状況ではなかったのが実態だった。

 

 さらにこの年、上層部を衝撃が襲った。12月に日本を発ち、ニュージーランドのウェリントン、南米チリ、ペルー、太平洋のハワイを巡航し、翌年9月に帰国した練習艦龍驤(りゅうじょう)の惨事である。271日間の航海で376名の乗員中、脚気患者169名、うち死亡者25名を出してしまった。ハワイに向かう途中では、ついに人手不足で汽罐から十分に蒸気が上がらず、帆走でようやくホノルルにたどり着くという状態だった。この2つの事件から海軍では英国から帰国したばかりの軍医高木兼寛(たかぎかねひろ)の改革は始まるのだった。

 

 一方、陸軍は1870(明治3)年に大阪の陸軍兵学寮(士官学校の前身)で生徒たちに脚気患者が大発生した。続いて翌年には東京の御親兵(のちの近衛兵)の部隊でも脚気が大流行する。『明治七、八年頃には脚気病が非常に多く、夏期になると殆ど五分の一は脚気という有様』とは軍医団の回顧記事の一節である。対策としては転地療養しかなく、仮病院も多く開かれた。東京の郊外にあたる、音羽の護国寺(いまの豊島区)、小石川の伝通院(同文京区)、戸山学校(同新宿区)などに患者を収容し、軽井沢(長野県)や箱根(神奈川県)などに転地させたという記録がある。

 

 これほどの大惨害があった。国民皆兵、富国強兵が叫ばれても、戦えない軍艦、動けない部隊では戦えない。では、当時の対策はどうだったのか。今から考えれば白米中心の貧しい副菜が原因というのは当たり前だが、その時代にはビタミンの重要性に気づくどころか、その存在すら想像もできていなかったのだ。では脚気の原因はどのように考えられていたのか。原因はどうして分からなかったのか、その理由を知らねばならない。

 

原因追求が難しかった理由

 

 まず、第1に脚気の症状が複雑で変化が大きかったこと。いろいろな症状が複雑に絡み合い、病気の症状が変わりやすかった。また、栄養状態が良さそうな元気なはずの若者、とくに男子に患者が多い。老人、女性、子供、もともと虚弱な人など、体力の弱そうな人は発病しないといった複雑さがあった。

 

 第2には、いつも粗食をしていると思われている人は発病しない。上等な食物である精白米を食べている人が罹り、玄米や粗精米(そせいまい)や麦などを食べている人は脚気にならなかった。現に麦飯を支給されていた監獄(刑務所)の囚人は脚気にはまるで縁がなかったのである。社会の上中層の人が患者になるので、食物が関係しているとは考えられなかったのだ。

 

 第3には、西洋医学には脚気に関する研究がろくになかったことがある。明治維新は西洋崇拝の改革だった。医学も蘭法といわれたオランダ医学、ドイツ医学がもてはやされた。それまでの漢方医はいっさいの権威を失い、時代遅れとされた。その西洋医学には脚気という病気は知られていなかったのだ。せっかく招かれた外国人医師たちもまるで初めて見る脚気の症状に戸惑うばかりだった。

 

 そして、何より最大の理由こそ、当時の医学界、栄養学界にはビタミンという微量栄養素の存在すら知られていなかったことだ。日露戦争の時代、20世紀初頭までは、タンパク質、脂肪、炭水化物と塩類さえあれば栄養は十分だと考えられていた。身体の調子を整える栄養と今なら説明されるビタミンなど誰もが想像すらしていなかったのである。

 

明治時代の主な原因説

 

 幕末から明治にかけて、漢方の脚気専門医として信頼を集めていたのは遠田澄庵(とおだ・ちょうあん)である。遠田(1819〜89)は千葉県佐倉藩士の家に生まれた。医学を幕府奥医師に学び、美作国津山藩の侍医となり、のちに招かれて幕府奥医師になった。独自の脚気原因説、つまり米食が元であると正論を唱えた。米の代わりに麦飯を食べさせることで症状を軽くし、しまいには完治させるという実績があった。しかし、この完璧な正論も西洋医学崇拝の中で、漢方医の旧い俗説とされて葬られてしまうのである。

 

 当時のヨーロッパ医学では細菌学が盛んだった。ふつうでは目に見えない細菌が多くの病気を引き起こすということから、脚気もまた細菌繁殖による伝染病だとされたのだ。これを主導したのは、ドイツ人医師ベルツとショイベである。ベルツはのちの帝国大学医科大学、ショイベは京都療病院のお雇い外国人だった。2人はそれぞれに有能で熱意のある医師だったが、当時の最先端にいた人々であるがゆえに、かえって漢方医の意見を封じてしまう権威者になった。そして存在しない細菌を探すという大迷走に医学界は陥っていく。

 

 ありもしない細菌を探すという無駄な努力はなかなか報われなかった。そこで中毒説が出された。脚気患者の様子は中毒症と似ていた。乳児脚気の症状は中毒症と同じである。犯人とされたのは変質した青魚、米についた黴(かび)などである。これを主張したのは、帝国大学の医学者たちだった。この説もかなり熱心に支持され、今度は脚気毒が探されるようになった。

 

 米食原因説と同じように日陰者扱いの説があった。栄養障害によるものだという考え方である。食事の中の脂肪とタンパク質の不足が原因とされるというものだった。食餌(しょくじ)が原因という点では鋭い視点といえたが、ビタミンという存在が知られていないのだから、脂肪とタンパク質の不足という考察では説得力に欠けるといえた。肉、卵、牛乳、乳製品が伝統的な和食には少ないということは明らかである。しかし、それでは西洋崇拝、白人優越主義になってしまう。これもまた、なかなか世の中全体に支持されるわけではなかった。

 

 ところが、この栄養障害説を果敢に実践に取り入れた勇敢な医師がいた。海軍軍医だった高木兼寛である。

 

海軍の栄養障害説と陸軍の伝染病説

 

 1880(明治13)年11月、5年間の英国留学から帰ってきた高木兼寛(1849〜1920)はただちに栄養障害説の見方に立った。日本人の食事にはタンパク質が少なく、炭水化物が多いという点に着目して、食餌を変えていこうとする主張である。高木はとりあえず、タンパク質を摂ることを増やしていくという方向で海軍の脚気対策を考えていったのだった。

 

 高木の生まれには諸説あるが、日向国(宮崎県)出身、貧しい郷士格の大工の家で育ったともいう。医者を志し、鹿児島の蘭法医石神良策(豊民)の門下で医学を学んだ。その後、戊辰戦争では薩摩軍所属の軍医として東北地方を転戦する。薩摩に帰り、1869(明治2)年には鹿児島藩医学校で英国人医師ウィリスに学ぶ。1872(明治5)年に石神の世話で海軍に出仕することとなった(翌年の名簿には海軍少医監=少佐相当として載っている)。同75年には英国に派遣、ロンドンのセント・トーマス病院医学校に入学、優秀な成績をおさめた。同80(明治13)年に帰国後、ただちに東京海軍病院長を命じられた。

 

 この高木の留学中には大きな改革があった。1876(明治9)年には『海軍省職制』の制定で、海軍省は軍務局、会計局、主船局、水路局、医務局、兵務局の六局制となった。医務局は庶務、薬剤、計算の3課で発足した。また、これまで文官だった医官は「海軍軍医」とされて武官となった。医官の養成制度も整備され、同73(明治6)年にはセント・トーマス病院の外科助教授、英国人アンデルソンが招かれ軍医寮学舎の教官になる。同79(明治12)年には海軍軍医学舎と改称されていたここから14名を卒業させてアンデルソンは帰国した。つづいて翌明治13年には、正規の第1期生15名が卒業する。高木の実践を支えたのは、この英国流医学を学んだ若い後輩たちの力が大きかったと思われる。

 

 高木は果敢に、勇気をもって自分の信念にそった行動をとった。彼はまず、現場に出向き、脚気流行の現場を直に見た。すると艦船によって発生状況に大きな差があること、下士兵卒に多く患者が出て士官には見られないことを発見した。そこから各艦船で購入している食糧の違いではないかと考えた。さらに高木は海軍卿(海軍省の長官)に直訴して、広く調査を行なった。すると、買われた食糧のうち、タンパク質の割合が高く、炭水化物が少ない艦船や団隊では発生率が低いことが分かった。逆に患者発生が多い艦船や団隊では、タンパク質の割合が低く、炭水化物が多いことが判明した。

 

 こうして高木は衛生行政担当官として兵食の改革を実行に移すのである。ちなみに、1883(明治16)年まで海軍兵食は「無標準金給時代」といわれたように、食費を金銭で支給していた。下士兵員はそれぞれ勝手に好きなものを買い、勝手な食事をとっていたのである。もちろん、グループ制でメンバーの意見を尊重しながら代表が買い込んでいたのだろう。そうなると、下士兵卒は食費を節約する。差額を戻され、貯金し、あるいは家族に送金するといったことになった。当時の食費は艦船乗り組み中には日額18銭、陸上勤務は同じく15銭、航海中は30銭である。これをおおよそ10銭程度に切りつめていたらしい。

 

 なお、士官には「食卓料」が支給されたが、将官は1日1円20銭、上長官(佐官)同80銭、士官(尉官)同40銭だった。彼らは英国流の貴族生活を行なっており、金を出し合って委員を選び、コックも雇い、洋食を食べ、バランスのとれた食事をとっていた。脚気にはまったく縁がなかったのだ。現在からみれば支給額の違いに驚くかもしれないが、欧州海軍との交際もあり、わが海軍ばかりが「民主的」にはなれなかった。また、下士兵卒にも外国航海中は日額36銭が支給された。そこから見ても、対外的には立派な海軍をもたねばならない明治国家の貧しさがうかがい知れるのである。

 

 次回は兵食改革と陸軍の改革の様子を比べてみよう。

 

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

(2016年(平成28年)3月16日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊』(並木書房)がある。


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