陸軍の「兵站軽視」はほんとうだったか?〈3〉

荒木肇さんの最新刊

日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想

「きわめて人間臭い、戦場の実相の一部が目の当たりに浮かぶような気がしました」(元自衛官)
「兵器装備というのは、予想戦場、兵士の知的水準、兵站補給、技術工業水準、その他もろもろの要素が絡み合って開発される・・・といった常識がとてもよく理解できました」(経済人)
日本の技術者はどんな兵器を開発し、兵士たちはどんな訓練を受け、戦ったのか?
先人への感謝と日本現代史に熱い思いを抱く、すべての人に捧げます。




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経理官の啓蒙活動

 

 陸・海軍に奉職する人には軍人と軍属がいた。軍人とは制服を着て階級章を着け、勤務する。軍人は身分の上では高等官と判任官になる。これらを武官といい、それに兵役義務を果たしている兵がいた。軍属には陸軍文官といわれる人たちもいて、武官と同じように高等官から判任官、それに兵にあたる雇員と傭人などである。現在の制服を着る自衛官と私服で勤務する防衛省職員(自衛隊員)の関係と変わらない。

 

 軍属は将官相当官もいれば、伍長相当の技手もいて、通訳官なども軍属である。また、陸軍看護婦も軍属であり、陸軍病院などに勤務した。赤十字の日赤看護婦は従軍看護婦といわれるが、それとは別の人たちである。また、文官では判任官は「属官」ともいわれ、官衙や特務機関では何でもこなせる裏方の実力者だった。今でいえば、高等官はキャリアであり、判任官以下はノン・キャリ
といわれる人たちと考えれば分かりやすい。

 

 陸軍軍人は戦闘を行なうことを主とする兵科と、支援業務を行なう各部に所属した。兵科は歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵と憲兵である。大正末にはこれに航空兵が加わり、1940(昭和15)年には兵科の区分がなくなって、憲兵以外はすべて兵科に統一された。それまでの「陸軍砲兵大佐」、「陸軍輜重兵少尉」、「陸軍工兵軍曹」は、それぞれ兵科の肩書がとれて、陸軍大佐、同少尉、同軍曹と呼ばれることになった。

 

 いまの陸上自衛隊では軍や兵は使えないから、兵科の代わりに職種という言葉が使われる。そして、陸軍のような各部という区分がないので、昔の軍医である医官も1等陸佐(大佐)、音楽隊長も2等陸佐(中佐)などと階級名をいい、制服の襟部の職種徽章を見ないと専門が分かりにくくなっている。

 

 各部は衛生、経理、獣医、軍楽であり、昭和になって技術、法務が加わった。1937(昭和12)年までは、それぞれ兵科将校・下士官・兵とは違う独特の官名があった。ただし、陸軍には経理兵という制度そのものがなく、主計兵という存在があった海軍とは異なっている。陸軍1等軍医正が同軍医大佐に、陸軍2等主計が同主計中尉に、陸軍1等獣医が同獣医大尉に、陸軍1等軍楽長が同軍楽大尉になったのは、それより後のことである。また、それまで将校相当官といわれてきた各部士官以上は、各部将校ともいわれるようになった。将校とは軍隊指揮権を持つ士官以上のことである。だから、各部将校といわれるようになったからといって、軍隊の長にはならなかった。

 

 なお、陸軍で幹部といわれるのは伍長とその相当官の各部下士官以上である。兵科の伍長、軍曹、曹長と准士官である准尉(元の特務曹長)と、それぞれの各部相当官である判任武官だった。判任官は進級や任免といった人事を所属官庁の長官が委任されていた。准尉までの下士官は、たとえば師団長が人事を受け持った。高等官とは人事が陸軍大臣の名で発令され、天皇に名簿を奏上して裁可を受ける奏任官(尉官と佐官、その各部相当官)と勅語をもって辞令が出される勅任官(少将と中将、その各部相当官)と、親任式を行なう親任官である大将のことである。また、各部には大将は存在しない。

 

 陸軍には陸軍将校とその相当官しか読めない雑誌があった。それを「偕行社記事」という。偕行社とは兵科将校たちの親睦、自主研究のための団体である。毎月1回発行される月刊誌のことを「偕行社記事」といった。

 

 その中に、大正時代の末期に書かれた佐伯正一1等主計(大尉相当官)の『軍隊經理に關する問答』という投稿記事があった。経理、とりわけ軍隊経理についての解説である。佐伯経理官は自分の所属隊(長崎県大村の歩兵第46聯隊)の友人である歩兵大尉に向かって、問答集のかたちで軍隊経理について説明している。以下、原文をなるべく活かしつつ紹介しよう。それを読むと、当時の軍隊経理官がどんな仕事をし、どのような考えで仕事をしていたかがよく分かるからだ。

 

『経理という言葉を広く使うと行政という意味になる。しかし、ふつうに軍隊で経理部、経理官、経理事務という風に使われると会計経理のことになる。陸軍に必要な品物を買い込んだり、保存整理したり、規則に従って人馬に金銭や物品を支給したり、することをいう。これを定義的に表すと、金銭衣食住に関する事項を処理するとなる』

 

 軍隊経理とは師団以下の経理をいい、主には聯(大)隊経理を指している。これは陸軍がその組織を「軍隊、官衙、学校、特務機関」と分けていることからである。また、陸軍の経理事務では、「委任経理」という特徴的なことがなされていた。それは現場の部隊長が金銭出納の責任者となり、将校団から選ばれた経理委員がそれぞれの職務を行なうことである。もちろん、聯隊や工兵大隊、輜重兵大隊に配属された経理官(将校相当官)が実務の多くを担当していた。

 

 師団司令部には経理部があり、部長である1等主計正(大佐相当官)が部隊ごとに決まった金額や、現品(米や麦、まぐさ等)を部隊長に渡す。その使い方は現場の部隊長の自由になり、廃品や空き箱、空き缶、残飯等を民間に払い下げて収入を図ることもできた。その金や余剰金は聯(大)隊の積立金とされた。それは年に一度の聯隊の軍旗祭などの行事で加給品として兵隊たちに振る舞われる菓子や酒、折詰などになることもあった。

 

 この委任経理制度は1875(明治8)年に施行された。その半世紀におよぶ長い歴史の間には戦役があり、社会情勢の変化も大きい。6鎮台の時代(1890年代初め)には物価は低かったし、経費もゆとりがあった。ところが日清戦争(1894〜5年)のあとから経費節減の要請がされるようになった。日清戦争を戦ったのは近衛師団以下の7個師団である。昔からの鎮台を改編して6個師団とし、これに近衛を含めて合計7個師団で戦った。

 

 やっとの思いで勝利を得て、賠償金のほか、領土の割譲も受けることができた。ところが、三国(独・仏・露)干渉で遼東半島を返還させられた。国民は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の合言葉のもと、次の戦争の相手はロシアと思い、陸海軍の拡充に走った。おかげで軍隊の経費節減への努力ということが強調されることになった。日露戦争が勝利に終わっても、ロシアのリターンマッチを恐れる陸軍はなお軍備拡充を怠らなかった。限られた予算のなかで、やり繰りをしようとすれば節約が第一歩である。

 

 ところが、戦うこと、平時では兵卒を教育訓練することこそが仕事だと思っている兵科将校は経理に関する意識が低かった。そこで佐伯主計は分かりやすく、経理への関心をもたせるために、この一文を兵科将校の必読書だった「偕行社記事」に投稿し、編集委員会もこれを掲載したのである。

 

歩兵聯隊の内務経理

 

『昔、軍靴は1組6カ月の給与期限だったが、6カ月半になり、7カ月になり現在では7カ月半となり、1カ月半の節約になった。これを1人当たりの1年の金額に換算すれば、2円15銭4厘だけ節約になったわけだ。聯隊の総人員をおよそ1500名と見ると、聯隊では1年間で3231円になる。これを陸軍全体の兵員を約20万とみれば、1年間で軍靴だけで節約される軍事費は43万余円になる。この額はほとんど歩兵1個聯隊の1年間の総経費に相当する』

 

 佐伯主計は言う。『国家の義務兵に対して、もともと豊富ではない給与状態にあるのに靴下の履きのばしをせよ、洗濯の石鹸も節約しろとは心苦しい』が、小額の経費で軍備の充実を図らねばならないのが現状である。兵科将校が分担する経理委員会は、経費の運用や、金銭出納、物品の保管、支給交換、手入れ、倉庫の管理など、どうしても給与の計画方面にのみ関心も偏ってしまう。
軍隊経理の全体とはとてもいえない。

 

 将校・下士は率先して、「内務経理」に力を注ぐ、つまり「兵卒の中に官物尊重心」を育てなければいけないという。たしかに「軍隊内務書」には『中隊長ハ法規ノ定メル所ニ従ヒ経理ノ業務ヲ処理ス』とも書いてある。しかし、その実態は中隊事務室の給養掛曹長に給与の支払いなどを任せるばかりではないか。

 

 佐伯主計は食事についても話題を広げる。大村聯隊は長崎県全県を徴募区とした。入営する現役兵の出身地域は12の徴集区から成っていた。長崎市、佐世保市と壱岐、対馬、沖縄の島嶼部、そして東西の彼杵(そのぎ)郡、南北の松浦郡、そして南北の高郡である。そこで入営前の常食(ふだん食べてきた主食)を調べてみた。それを見ると、大正末期の地方の人の暮らしをしのぶことができる。

 

 長崎市では白米だけを食べていた入営兵は全体の中の70%、米麦混食が25%である。麦だけは4%にしかならない。県庁所在地の豊かさがしのばれる。これが佐世保市になると、白米は50%、米麦31%で麦だけは19%にのぼる。おそらく港湾の労働者の子弟が貧しい階層になり、麦を常食とする人がいたに違いない。離島になる壱岐島だと白米17%とずいぶん下がり、米麦46%、麦13%になる。ほかの郡部でも白米食はおおよそ20〜30%である。全体では白米食は3割であり、米麦混食もほぼ同じ3割、それに甘藷(さつまいも)を混ぜていた者が1割、麦食は16%である。

 

 それに対して、『国民の中等程度』の食事を給するというのが陸軍の方針だった。1日の賄い料、副食や調味料、茶などの経費はこの第12師団管内では19銭4厘だった。そうしてみると、主食以外で1カ月およそ5円が支出されていたことがわかる。当時の一般家庭の生活水準で、米麦6合の他に家族1人あたり5円の食費を支出するのはかなり暮らし向きも良い方であろう。全体の30%しか進学しない中等学校にあたる師範学校出の22歳の教員の給与は1カ月40〜50円くらいだった。正確な比較はいつも難しいが、1円はいまの6000円くらいの使いでがあったと見ると、1日の主食を除いて食費がおよそ1000円となる。1200円くらいだと言えないのは、風呂の燃料代、調理の補助のアルバイトやボイラーマンの給料も賄い料に含まれるからだ。

 

 戦後、陸軍の兵営生活をふり返り、悲惨だった、苦しかったという回想録を発表した人が多かった。それは当時、同世代の3%くらいの高等教育に進んだ人である。また、陸軍にとっても異常だった戦時の軍隊の体験談が多かった。高学歴のホワイトカラーの人たちが陸軍にたくさん入ったのは1937(昭和12)年の日支事変による大動員からである。

 

 明治大正時代に、兵役義務を果たしたあとに刻苦して技師や医師になった若者の手記が残っている。彼らは例外なく、陸軍の平時の暮らしの良さをよく記録している。そして、地方新聞の記事の中には、『軍隊から帰ってきて毎日、肉が食いたいという長男がいて困る』という人生相談などを見ることができる。ちなみに現在の陸上自衛隊の1日3食の賄い料もほぼ1000円であり、不思議な整合性がある。家族1人に主食抜きで1月3万円の食費をかける家庭がどれほどあるだろうか。いつも陸軍は「中程度」の食事を支給する伝統がある。

 

 佐伯主計は続ける。1厘とはたくあん漬け6匁(22.5グラム)になる。

『帝国陸軍衙の炊事場を総計すれば300カ所になる。1日3回炊事をすれば900回である。これを1年に見積もると32万8500回で、1炊事場が1回の炊飯で洗米、配米で流失するものが1合(150グラム)と仮定すれば、1年に328石5斗の損失で、平時定員の歩兵聯隊の約40日分の糧米になる』

 

 『次に被服について言うと軍用の被服のうち、羅紗(絨・らしゃ)で製造されているものは、軍帽、軍衣、軍袴(ズボン)、外套(コート)、雨覆(レインコート)、巻脚絆(ゲートル)を主としている。これらの原料は羊毛である。そして、わが国には羊はほとんど飼育されていない・・・』

 

 陸軍は東京に千住(せんじゅ)製絨所という工場を持っていた。そこでは平時では軍用の絨(ウール)を作りながら、民間向けの羅紗も製造していた。民間向けには再生毛を混ぜていたが、軍用はすべて新毛しか使っていなかった。だから、「戦用被服」といわれた毎年交付される新品は、たしかに高級な生地を使ったものばかりだった。もちろん、羊毛の輸入先は大英帝国のオーストラリアであり、商社を使って買い上げていた。

 

 皮革についても述べている。陸軍の匂いは『汗と馬糞とスピンドル・オイル、それに加えて皮、保革油だった』という思い出話がある。歩兵なら弾薬盒(前に2個、背中側に2個着ける)、帯革(たいかく・ベルト)、背嚢、水筒の吊紐、編上靴(へんじょうか・軍靴)、銃剣の吊具などである。平均、牛1頭で編上靴なら5足、長靴なら3足だという。生産状況は内地、台湾、朝鮮を合わせて300万頭内外である。うち、朝鮮牛は背嚢の皮に用いるし、総数には乳牛や子牛も入っている。靴用の牛皮を取れるのは約120万頭くらいだろう。これでは戦時に100万にもなる野戦軍にとっては軍靴の補充は2年くらいしか続かないといっていい。

 

経理官の始まり

 

 佐伯1等主計のような経理官はどのように養成されていたのだろうか。通史的にみてみよう。
 建軍当初はフランス式の経理官制度を導入した。それがドイツ式に改められたのは1902(明治35)年からといわれている。フランス式は指揮統帥では軍司令官は大統領(国王)に直属して、陸軍大臣は行政系統のトップに立つ。会計監督は陸軍大臣に直属し、軍司令官の隷下にはならない。戦時には大臣が人員補充・兵站・補給を担当し、軍の指揮統帥には総軍司令官が任命される。

 

 これに対してドイツ(プロシャ)式では、皇帝が最高指揮者であり、軍団では会計監督部は軍団長に隷属し、財政上のことは陸軍大臣と事務を往復した。これが陸軍崩壊までの経理部の在り方と同じであるから、明治35年の改革で日本陸軍は経理制度をドイツ式に改めたということが分かる。

 

 建軍当時は、ほかの兵科・部も同じように自薦、他薦も含めて、欧米式経理の知識のある人たちが集められた。近代的な組織の帳簿を作ることから外国文献と首っ引きの時代だった。外国語ができなくては、官に仕えることなどできなかった時代である。

 

 1873(明治6)年3月に陸軍省職制と条例が制定された。7つの局が置かれたが、そこの第5局が監督部、軍吏部会計事務を扱い、糧食・薪炭を担当する第1課から被服・陣営具の第2課、それらから始まり第9課までの9つの課に分かれている。

 

 定員表によれば、局長は監督長(三等官・少将相当)、副長は監督(四等官・大佐同)で1等副監督(五等官・中佐同)が3人である。各課長は軍吏正(六等官・少佐相当)や2等副監督(六等官・少佐同)となっている。監督長は津田出(つだ・いずる)である。津田は1832(天保3)年に紀州徳川家の藩士の家に生まれ、江戸で蘭学を学び、和歌山藩政改革制度をリードしたが、勤皇運動で失脚。のち、執政として復職し、維新によって和歌山藩大参事に昇任した。徴兵制、市民平等による藩政を実行しようとし、中央政府に招かれたのである。

 

▼経理官・監督と軍吏

 

 同年5月には陸軍武官官等表が定められ、将官、上長官(のちの佐官)、士官、下士、卒などの区分ができた。そのほかには会計部、軍医部などの総括的名称も定められた。会計部には副監督、司契、軍吏などの官を新設した。そして、1874(明治7)年2月には「鎮台職官表」が出され、軍隊に初めて経理官が付属することになった。

 

 このときの6個鎮台の総定員は3万720名であり、会計官等は394名だった。軍人・軍属全体の中で1.3%弱である。この時の鎮台会計部の定員も見ておこう。
(1) 派出監督課
1(2)等副監督(中・少佐相当官)6名、1等書記(曹長相当官)18名。
司契課には1等司契(中佐相当官)、2等同(少佐同)が各3名ずつ、司契副(大尉同)が6名で1・2・3等書記(曹長・軍曹・伍長同)が18名という陣容である。
(2) 糧食・薪炭課
軍吏(大尉相当官)6名、軍吏副(中尉同)6名、書記(階級指定なし)12名、それに雇員である夫長6名。
(3) 被服・陣営課
軍吏6名、軍吏副6名、2(3)等書記12名。それに庫守と夫長がそれぞれ6名。
(4) 病院課
軍吏5名、軍吏副7名、2(3)等書記17名、1(2・3)等看病人(衛生下士官)27名、看病人104名、厨夫19名、それに守門10人。
(5) 兵隊付属軍吏(軍隊に配属される軍吏)
聯隊には軍吏14名、他の各隊には軍吏副77名。

 

 1877(明治10)年に起こった薩摩軍の反乱である西南戦争には多くの経理官が参戦する。当時は、各鎮台から臨時編成の旅団が出征した。旅団司令部の各部職員表がある。
 第1旅団を例にとると、参謀部、会計部、軍医部、砲兵部、輜重部に分かれている。参謀部長は中佐、ほかに3人、下士卒文官を合わせて24名になる。会計部長は2等司契(少佐相当)、司契課長は軍吏副(中尉相当)心得1名と下士書記が2名、三井銀行からの使役が1名の合計4名。糧食課が軍吏副心得1名を長として軍吏補が1名、下士書記5名の合計7名。被服課は軍吏(大尉相当)を長として下士書記2名の合計3名。人員的に多かったのが病院課であり、長は軍吏補(少尉相当)、下士の看病人8名、それに看病卒39名で合計48名。会計部全体では68名になっていた。

 

 司令部の中で会計部に次ぐ人員数は輜重部である。輜重部長は大尉、ほかに大尉2名、少尉試補1名が士官であり、軍曹3名、伍長5名に兵卒が42名の合計54名だった。当時の輜重は主に現地で雇い入れた軍夫や馬方、人力車の指揮、監督、護衛を任務とした。

 

 1883(明治16)年の太政官達は、各兵科各部を通じたすべての官等がそろった初めてのものになる。それによると、会計監督長(少将相当官)、会計監督(大佐同)、会計1等副監督(中佐同)、同2等(少佐同)と会計監督補(大尉同)という監督官の系列と、会計1等・2等・3等の軍吏(大尉〜少尉同)、それに判任官1〜3等の会計書記(曹長・軍曹・伍長)という2つのコースがあった。発足当時の制度にあった「司契」という契約担当官は監督・軍吏に吸収された。

 

 最高官が中将級になったのは1897(明治30)年のことだった。これは衛生部武官も同じで、軍医もこのとき最高官が中将級となった。経理部では監督総監が新設され、これと少将級の監督監が将官(親任官)となり、1〜3等の監督、監督補はこれまで通り、ただし1886(明治19)年には会計という言葉が官名から省かれていた。軍吏系統も変わらないが、判任官では書記が計手という名称になり、他に縫工長と靴工長という技術系下士ができた。これまで各兵科に属して被服や靴の修理に携わっていた下士をまとめて経理部に移したのだった。

 

 この後の大きな改革は1902(明治35)年の日露戦争直前のことである。1等から3等の副監督(大尉〜少尉級)ができて、准士官である上等計手が新設された。そして、翌年には監督と軍吏の2系統を合わせて主計に統一される。そして、翌1904(明治37)年には上等計手が廃止され、それが復活するのは1909(明治42)年のことだった。

 

 こうして経理部高等武官は1903(明治36)年から後に、主計総監、主計監、主計正(佐官相当、1〜3等に分かれる)と主計(尉官相当、同前)という官名を使うようになった。1936(昭和11)年の2.26事件で決起した将校、元将校の中でただ1人、元一等主計(大尉相当)がいるが、彼は歩兵科から転科した人だった。

 

初期の養成制度

 

 1886(明治19)年、陸軍軍吏学舎が創設された。初めての系統的な士官養成の学校だった。1等書記(曹長相当)、明治22年からは兵科曹長からも試験選抜し、おおよそ10カ月の教育を行なって3等軍吏(少尉級)に任官させた。この制度は1902(明治35)年まで続き、第14期生まで総員514名が経理部士官となった。このうちから主計総監8名、主計監14名が生まれている。

 

 並行して監督の補充教育を行うなために、1890(明治23)年には陸軍経理学校を創設する。各兵科中尉のうち2年以上現職にある者、1、2等軍吏のうち優秀者を試験選抜して入校させた。2年間の教育を行ない、監督補(大尉相当)に任命した。

 

 日清戦争を勝ち抜き、軍備拡張の声が上がるなかで、経理部も高級幹部をさらに必要とすることになった。1894(明治27)年には監督部・軍吏部士官の特別補充制度がスタートする。各兵科大尉や1等軍吏の中から適格者を経理局長、野戦監督長官(日清戦争の戦時態勢で置かれた)の推薦で監督補に任用した。さらには高等商業学校卒業生から軍吏に採用し、監督講習生として経理学校で教育を行なうようになった。軍吏は現場実務を担当するが、それ以上の素養がなかったため、監督にするには学校教育が必要だったためである。

 

 なお、当時の「地方の高等商業学校」というのは、1894(明治27)年現在では、東京にあった官立商法講習所から発展した高等商業学校のことである。のちに東京商科大学、戦後には国立一橋大学になった、当時唯一の専門学校だった。ついでに当時の高等教育機関をあげると、高等学校が7校、専門学校は33校、中学が82校しかなかった時代である。もちろん、進学率などは1%にもならない。帝国大学生は全部で1500人にもならず、専門学校生も8500人、中学生は2万2000人という数字がある。

 

 続いて1902(明治35)年には、大学出身者にも採用の枠を広げることになった。その頃、ようやく近代的教育制度が産んだ人材が増えてきて、各官庁にも帝国大学出身者が主流になってきた。そこで、それらとの整合性を図るために帝国大学出身者を採用することになった。3期生までの4人である。ところが、この人たちは高官にはなったが、「実務を主眼とする」軍隊経理には向かずに多くの批判があった。周囲と比べると、あまりに識見・知識レベルが高すぎ、軍隊の実態とはかけ離れていたのだった。再び大卒が採用されるようになったのは1927(昭和2)年になった。

 

日露戦後の大補充と主計候補生

 

 日露戦争後の平時25個師団、戦時50個師団という整備目標は、兵科候補生の大量採用をまねいた。1906(明治39)年の臨時学生制度である。1等計手(曹長級)から選抜し、およそ380名の3等主計を作った。これは兵科将校の養成制度に比べると、いささか甘いものであり、兵科では学校を出ていない下士からはよほど特別なことがない限り将校にはしなかった。いまの陸自でいう部内幹部候補生(陸曹出身者)制度ができて下士から士官に任用される制度(少尉候補者)は大正半ばにならなくては始まらなかった。兵科ではない、各部であるということから反対意見も少なかったのだろう。

 

 大きな改革は1903(明治36)年、日露戦争勃発の1年前である。経理学校に生徒を集め、兵科の士官学校と同じように士官候補生制度を採用した。もちろん、名称は「主計候補生」だった。受験資格は中学校卒業以上、1年志願兵(予備役幹部になるために入営した経費自弁の学歴所有者)、満18歳以上21歳以下、または現役下士官から志願した者(満26歳以下)である。候補生に採用されると、9カ月間の指定された歩兵聯隊での研修を受けた。師団経理部長などの教育や実習を行ないやすいので師団司令部所在の聯隊に限られた。

 

 その後、東京の陸軍経理学校に入校し、兵科士官と同じく1年9カ月の教育を受け、見習主計として部隊に帰った。そこで6カ月間の実務を習得し、3等主計に任官した。ところが、この制度は長続きしなかった。1920(大正9)年に突然、主計候補生制度は廃止されてしまう。理由はさまざまに解説されているが、世界大戦後の軍縮の気分、日露戦後の兵科将校の大量採用者を経理官に転科させるなどの理由があってのことだろう。1907(明治40)年卒業の第1期生、76名から1922(大正11)年卒業の第16期生、77名まで、毎年およそ50名の主計候補生の総数は905名である。この人たちは大正時代の経理官の主流であり、長い戦争の続いた昭和期には高級経理官として活躍した。戦没者も多い。

 

 大正末期から昭和期にかけての経理官補充については次回に譲ろう。さらに輜重兵についての話も次回に行なう。

 

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

(2015年(平成27年)12月30日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊『日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想』(並木書房)がある。


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