陸軍の「兵站軽視」はほんとうだったか?〈2〉

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軽視ではなく、計画の失敗だった!

 

 一国の軍隊が何を持つか、それをどう運用するのか、そのためにどういう組織を作り、人にどう教育・訓練を施すのかというのは複雑で、かつ広大な企画である。しかも、それの実現には国家財政というカネの問題が大きく関わってくる。軍隊は国家機関の一部だから、軍人という一部の官僚だけが自分たちの「軍事的合理性」だけを盾にして要求を通すことはあり得ない。

 

 今から見れば無謀だったと評価される大正時代の海軍の「八八艦隊」の建設計画も、当時は適法な手続きを経て裁可されたものだった。あの時代は、国内の主要幹線道路の数パーセントすらも舗装されていなかった貧しい国家だった。それが戦艦8隻、巡洋戦艦8隻とそれを支える支援艦船を巨額な維持費も含めて認めていたくらいだ。

 

 海軍の遠大な計画のために、陸軍は自分たちの要求を我慢せざるを得なかった。平時25個師団、戦時50個師団という整備計画を取り下げることになった。併合した朝鮮の治安維持のための2個師団創設でさえ、「陸軍のごり押し」と評価される始末である。のちの時代の話だが、戦艦大和1隻の主砲1門の砲身鋼材で、陸軍は野戦重砲5個大隊分の装備ができたはずだ。あくまでも単純計算だが、重さだけならそういうことになる。もっとも、それを牽引するトラクターを十分に調達でき、その燃料を用意できたかはまた別の問題ではあるが。

 

 今も似たような問題は起きている。詳しくは知らないが、政府当局は数年前、戦闘ヘリコプターの導入にあたって財政問題を理由に某社に発注を中止した。おかげでその会社は大損害をこうむり、政府が数百億円を補償することになったらしい。記事の扱いは小さく、一般世間では大きな話題にはならなかったが、軍備と一般国家財政との関係をよく表している。要は今も昔も、その点では変わらないということである。

 

日露戦後の陸軍

 

 さて、陸軍史に詳しいであろう読者の方々にはくどい話だが、日露戦後の陸軍の様子をふり返って見るのも興味深い。ポーツマス条約に反対した新聞世論があった。もっと戦え!賠償金を取れ!そのためにはもう一回戦争だというのが、自分は戦地に決して行かない人々の主張である。実は陸軍には、もう戦争を続ける余力はほとんどなかった。内地の人的な資源はほとんど戦地に送られてしまった。とりわけ下級将校の損耗は大きく、予備、後備将校の名簿は戦死傷者で埋まっていた。陸士出身、下士・准士官からの現役将校は開戦当初から不足していた。それが大損耗である。奉天の会戦後、もうひといくさなどできる状態ではなかった。

 

 講和に反対する世論にかかわらず、史上最大の野戦軍だった満洲軍は「軍凱旋計画」を立てていた。動員によってふくれ上がった戦時編制の軍隊、機関を復員させるのが軍隊のまず重要な仕事だったからだ。

 

 戦争中に急いで創設された師団があった。兵力の不足を補うために臨時動員された第13、14、15、16の各師団である。第13師団は朝鮮北部に送り、ほかの3個師団は満洲で戦場に立った。和平が成ったあと、第3軍で戦った第14師団と第4軍隷下の第16師団を満洲に残し、第2軍で戦った第15師団を朝鮮に移駐させる。朝鮮駐箚部隊はこの第15師団と交代させる計画だった。

 

 計画書は主文がわずかに3条である。
(1) 第14ないし第16師団を除き、鉄道を使って乗船地まで輸送する。
(2) 第14と第16師団は満洲に残留する。ただし、各野戦電信隊と輜重、兵站諸部隊は凱旋する。
(3) 第15師団は韓国駐箚となって派遣される。その輜重は凱旋する。

 

 当時の1個野戦師団の戦時編制は次の通りである(標準的な編制)。

 

 師団司令部に歩兵旅団司令部2個、歩兵4個聯隊、騎兵、砲兵が各1個聯隊、工兵大隊、輜重兵大隊が各1、架橋(がきょう)縦列、弾薬大隊、馬廠、衛生隊が各1、そして4個の野戦病院である。合計1万8689人と野戦電信隊129人となる。戦闘部隊は司令部、歩兵・騎兵・砲兵の各聯隊と工兵大隊である。ほかは輸送と治療などにあたる支援部隊からできている。戦闘部隊の中には大行李(衣糧品など)、小行李(弾薬など)といわれる輜重兵科の運搬部隊、経理、衛生、獣医などの各部や技術系の工長(下士官)や従卒、馬卒なども含んでいて、これらは非戦闘兵員といえる(ただし、法的な意味ではなく、戦場火力の第一線ではないという意味である。法的には衛生部員のみが非戦闘員になる)。

 

 支援部隊には工兵材料の運搬を専門とする架橋縦列(中隊規模)と、歩兵と砲兵の弾薬運搬にあたる弾薬大隊(歩兵弾薬縦列2個と砲兵弾薬縦列3個)、糧食運搬の輜重兵大隊(糧食縦列4個)、輜重馬の管理をする馬廠、衛生隊と野戦病院があった。

 

 この師団が抱える兵站諸部隊とは、兵站監部員(兵站監部への差し出し人員・65人)、6個兵站司令部、野戦兵器廠、兵站弾薬縦列、兵站糧食縦列、輜重監視隊、衛生予備員、衛生予備廠、患者輸送部、予備馬廠で構成され、1225人となる。

 

 また、常設師団は留守師団を持ち、野戦に後備旅団その他を編成して出征させた。その人員は、後備歩兵旅団司令部と、後備歩兵4個聯隊、同砲兵中隊、同工兵中隊、同弾薬大隊、同糧食縦列、同歩兵弾薬縦列、臨時衛生隊や後備旅団衛生隊などを各1、と1個後備旅団野戦病院の合計1万1316人にのぼった。

 

 さらに軍隊が動くためにはそれを支える部隊がいた(カッコ内は人員)。補助輸卒隊(3640)、補助水上輸卒隊(520)、建築補助輸卒隊(478)、これらはさらに召集令状によって集められ、臨時編成がされて出征した。ある師団はこれらが合計1万人になる。

 

 ついでに内地の留守師団といわれる後方支援部隊も調べておこう。各歩兵旅団の下にある4個の歩兵聯隊にはそれぞれ補充大隊があった。砲兵聯隊も補充大隊、騎兵聯隊、工兵大隊、輜重兵大隊には各1個の補充隊、補充馬廠、兵站基地司令部や予備病院などがあり、これらの総人員は6820人になる。

 

 まとめて言えば、当時の野戦師団の歩兵小銃数は約1万と計算された。直接戦闘に従う兵員数は砲兵・騎兵・工兵を合わせて、ざっと全体の65パーセントくらいである。4個歩兵聯隊の小銃火力は兵卒が9600、下士が800と計算された。留守部隊とは出征部隊への人馬の補充、新たに動員される部隊の基幹となる現役兵の教育、補充兵の教育にあたる。また、同時に戦地から帰還した傷病兵、還送患者の治療やリハビリにもあたった。

 

 こうした野戦師団や後備歩兵旅団は大陸に渡った。戦闘部隊、支援部隊、兵站諸部隊の軍人、軍属の総数は軍人が約94万5000人、軍属が同じく5万4000人だった。合計およそ100万人である。内地勤務は軍人が14万3000人、軍属は10万人だった。あわせておよそ124万人となる。100万の野戦軍、しかし、戦闘正面に立つのは65パーセントくらいと考えれば、30万人以上が兵站・補給の任についていたのである。

 

日露戦後の軍備拡充

 

 1906(明治39)年、平時兵力が増強された。第13から第16までの4個師団が常設化された。近衛師団もあわせて17個師団態勢といわれる。『平和克復と雖(いえど)も戦役の結果により新たに獲得したる国権を確保するため・・・』を理由として戦時に特設した4個師団を常設化することにした。実務的には、新たな駐屯地や演習場、病院などの土地を確保し、あらゆる設備を建て、師団管区を改定しなくてはならない。これに加えて、1907年から10年までに第17、同18の2個師団が新編された。ロシアから賠償金もとれず、深刻な戦後不況のなか、あらたな6個師団をよくも作ったものである。

 

 ここで1907(明治40)年の『陸軍平時編制』を見ておこう。そこから見られる兵站関係の機関を抜き出してみる。陸軍の組織は
「軍隊・官衙・学校・特務機関」に大きく分けられた。さらに樺太・韓国・南満州に駐屯する部隊があった。

 

 まず、官衙の中にある兵站や人事に関わる組織である。陸軍軍馬補充部、(以下、すべてに陸軍を冠する)兵器廠、砲兵工廠、火薬研究所、運輸部、会計監督部、衛生材料廠、被服廠、糧秣廠、陸軍を冠しない千住製絨所、衛戍病院(全国に77カ所)、衛戍監獄、東京廃兵院、台湾衛戍病院などがあった。

 

 外地にあった組織は、樺太衛戍病院、兵器支廠、軍馬補充部支部、韓国駐箚衛戍病院(4カ所)、陸軍倉庫、衛戍監獄、関東兵器支廠、関東軍馬補充部支部、関東衛戍病院(3カ所)、関東陸軍倉庫、関東衛戍監獄、陸軍運輸部支部などである。

 

 これに人材育成のための学校があった。陸軍経理学校、陸軍獣医学校、陸軍軍医学校、陸軍砲兵工科学校である。経理学校では兵站、補給の中心になる経理部将校相当官、同下士官を養成し、獣医学校や軍医学校もそれぞれ専門家を育てていた。

 

 それぞれの詳細は次回に譲るが、こうした組織やそれらをつなげるシステムはしっかりと構成されていた。問題は、19個師団から朝鮮の2個師団の増設がされ、合計21個師団。大正末の軍縮で4個師団が廃止され、平時のボトムだった17個師団。戦時になれば、それから生まれる特設師団などを入れて40個師団くらいを持つのが限度いっぱいだったのだろう。

 

 補給組織も兵站のシステムもそのあたりの規模で計画されていた。しかも、仮想敵国はロシア・ソ連であり、予想された戦場は満洲だった。それが、1937(昭和12年)以後の日支事変以後に師団増設が相次いでいく。人も物も金も戦争の拡大に追いついていけなくなった。その挙句に南方進出である。装備も教育もすべて北方の戦場向きで行なわれてきた陸軍は「兵站・補給軽視」どころか対応・適応するのにおおわらわという状態だった。

 

 兵站と動員は表裏一体の関係にある。兵站を裏付けるのは国家の豊かさであり、あるいは資源の集中や統制の成果といえよう。また、兵站を支えるのは主に人の知的レベルである。企画能力、調整能力、運営能力などなど、いわば国民の知力の結集でもある。

 

 補給は、そのごく一部でしかない。ガダルカナル、インパール、ニューギニア、フィリピンなどを「地獄の戦場」にしたのは補給の失敗なのである。それを兵站すなわち補給と考え、細かく考えずに軽視していたとまとめてしまう。そこにわたしたちが自分たちの現在を考えるカギの一つがあると思っている。

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

(2015年(平成27年)12月23日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊』(並木書房)がある。


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